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最初の記憶。1969年日本グランプリと黒澤元治選手とブルーライトヨコハマ

私の最初の記憶は、1969年10月10日の日本グランプリだ。私の誕生日が10月11日なので、3歳最後の日となる。さらに細かいことを言えば、法的には誕生日の前日で1歳加算されるので4歳最初の日とも言える。日本グランプリは、今の国内自動車レースとは比較にならないほどの一大イベントだったようで、自動車鈑金塗装工の父は「クルマ屋が見に行かなくてどうする」とまで言っていた。

この時の私の記憶は富士スピードウェイまであとひといきというところのひどい渋滞から始まる。そこまでのルートは開通したばかりの東名高速道路を使ったのか、あるいは国道246号を東京から御殿場まで延々と走っていたのかはわからない。私には最初に聞いた曲がいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」という刷り込みがある。リリースが1968年なので、富士スピードウェイまでの往復でカーラジオから流れていたのかもしれない。

現在の富士スピードウェイのヘアピンコーナー(アドバンコーナー)

とにもかくにも富士スピードウェイ周辺の山道で渋滞のためクルマは動かなくなった。そのまま私は夜を明かしてしまい、その次の記憶はすでにコース内となる。今度は、あふれかえるような人の波だ。

まだ富士スピードウェイを象徴する30度バンクを使用していた頃だが、残念ながらそこを走るレーシングカーの記憶はない。主に見ていたのはバンクを駆け下り、S字を抜けたあとのヘアピンコーナーとメインスタンドだ。3歳の私がヘアピンコーナーという呼称を知っているのは不自然だが、景色を覚えていて本などで確認した「あとづけの記憶」だろう。あるいは「ヘアピン」というような言葉を父はそのときに使っいたのかもしれない。

メインレースは黒澤元治/砂子義一が日産R382で優勝した。決勝は黒澤選手が一人で走りきった。ただ、その具体的な記憶はまったくない。もしかしたら渋滞を嫌った父が早目に切り上げた可能性もあるだろう。今もはっきり覚えているのは3歳児にとってあまりにも長いレース(3時間42分)と、グランドスタンドから見たレーシングカーのエキゾーストパイプから時折発せられるアフターファイヤーだ

1969年日本グランプリの覇者、黒澤元治氏(左)と箱根でツーショット



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