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隣の芝生は青じゃないかもしれない

大学の同級生に、アクティブで笑顔がふにゃっとしていて明るくて柔和で、やりたいことが明確で自分の道を進んでいく子がいた。芯がある、「正しい人」という感じがあった。何かの授業が一緒でたまに話す程度だったから、すごく仲良かったわけではないけどなぜか数年ごとにふと彼女のことを思い出す。

数年前に彼女の存在を思い出し、直接の繋がりがないためFacebookで検索してみると、子育てしながら会社勤めしながらフリーで仕事していた。すごいなー!と思って閉じた。

先日またふと思い出し検索してみると、退社しフリーランスとして数年働いたのち、法人作ってた。
もう、すごくて、キラッキラ。着実に実績を積み早くに結婚し子どもが何人かいて、転職ごとにスキルアップし勉強し続け複業し、法人設立し地域に根ざして社会に貢献していて。さらに大学院に進もうとしているらしい。眩しい、眩しすぎる。福祉の学部だったんだけど、ずっと1つの道で進んでる。ギブの精神で生きてる人だなと思う。

同い年の活躍って、自分が成長している実感が持てていないと私だけ時が止まっている気分になってしまい、めちゃくちゃ焦燥感に駆られる。
やばい何かしなきゃ何かしなきゃ、何かってなに??何ができる?何をしたい?焦る。そして自分にがっかりする。選んでいる道が違うから比較する土俵にも上がってないのに、年齢的に管理職や個人事業主、ワーママになっている人が多数で、目に見えて誰かしらから必要とされている人たち、自立している人を見ると、私はなにもない、と落ち込む。ガーンとなる。共通点があると感じている相手ほど自分と比較してしまう。

よく考えて!全然違うんだから!出会った頃のスタートから違ったでしょ!志がぜんっぜん違ったでしょ!!と言い聞かせる。彼女に憧れてたのかもしれないなあ。あの頃の私にも今の私にもできないことを成し遂げている。羨ましい。

でも「なりたい像」ではない。
私はバリバリ働きたいと思ったことがない、子どもも欲しくない、大学で専攻していた業界にも見切りをつけ、その道の努力をやめた。分岐点でサヨナラした道。

いいなぁ…と羨むのは、満ち足りているように見えるからだ。

言わないだけで、みんな大変。
見えていること、見ていることが全てではない。

定期的に思い出さなきゃいけない事実だと思う。
実際に、彼女のインタビューを見るとなかなか紆余曲折があったようだった。そりゃそうだ。人一倍努力してるよな。

やりたいこと、やってみたいこと、知りたいこと、それらは自分が本当に思ったことか?
「やった方がよさそう」だから「やりたい」と思っていないか?変換されてないか?
あの人がやってるから、じゃないか?損得で考えてないか?
自分の本質の幸せを見失ってないか?
目標が大きすぎてないか?

自分にがっかりするときは、足りないところを数えているとき。
行動規模を小さく小さくして。本当の願望はもっと身近な、「心の安定、日々のおだやかさ」「心震える、小さくていいから生活の中で感動や笑いやハッピーさを感じること」「心理的安全なコミュニティを増やす、大切にする」。

自分のペース、緊張せずに居られることや安心感が私の人生では必須。ほっとする時間、友人関係、結婚、住居、職場環境、コミュニティ、私はまずそうゆう身の回りの幸せから満たしていこう。

自分への信用、自分への期待が回復するとこまで、小さな「できたこと」を積み重ねよう。
そのあとに「できること」を考えよう。


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