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国立市・東大、協定調印式の様子(3)

「専門の人に任せておけばいい」は違う

記者)2点、質問させていただきます。先ほどフルインクルーシブ教育の定義が出ましたが、もうちょっと詳しくお話をう聞きたい。通級はどうするのか、特別支援学級に籍を置くのかなど、どこまで国立市ではやっていくのかというところが非常に注目されると思うので、そこのところ、現在の構想で構いませんので教えていただきたい。

 また、インクルーシブ教育の取材をしていくと、教育者から「四六時中一緒にいる必要はないんじゃないか」という声をよく聞きます。これが現在の文科省の「インクルーシブ教育システム」と皆さんがおっしゃっている「フルインクルーシブ教育」との大きな違いだと思います。どうして「四六時中一緒にいなくてもいいのか」あるいは「一緒にいた方がいいのか」。ここのところをお話いただけますか。

雨宮教育長)今の在籍の部分をどうするかということに関して、私が今現在「これがいいんじゃないの」という部分は正直まだないです。ただ、私の知ってる人たちの話などを聞いていると、「まずは一つのところに在籍する。通常級なら通常級に籍を置くというのがいいのでは」という話は聞いているので、それがいいかなという感じは、実は今、思っています。

 ただ、たとえば大阪の例でいうと、実はその大空小学校だとか、ああいうところでも特別支援学級はありますよね。それはなぜあるかって言うと、教員を配置してもらうために、特別支援学級を設置していて、先生をつけていただいている。でも実際は、もうみんなが一緒に同じ場所で学んでいて、そこの先生が通常級に来てうまくやっているということだと思います。

 たとえば、東京都の教育委員会でその話が通るのか、通らないのかも、全然私はわかりません。そのあたりはこれからいろいろ研究や実践をしていく中で、答えが出てくるのかなと思っています。正直、「では国立で、単費で、その分の教員をつけられるのか」と言われれば、多分そんな余力はないです、今のところ。そうなると、市の一般会計のお金をそこに投入する形になるので、トレードオフの関係でどこかを減らさなければいけないよね、となってしまうので、そこはかなりハードルが高いのかなと私は思っています。

 それから、「四六時中いた方がいいのか、どうなのか」みたいな話ですが、これも、正直言ってまだ私自身では捉えきれてないところがあります。

 けれども、今日も実はここに来る途中で話し合っていたのですが、そのお子さんに対応するために特別に人をつけてもその人に頼りきりになってしまうということがあって、絶対それは…なんていうのかな、おかしいとは言わないですけども、全然、趣旨が違うよねと。特別に人がついているので、子どもたちも「じゃあその人に任せとけばいい」となってしまうし、担任である教師、あるいはその授業に入った教師も「ああ、専門の人がついているから、その人に任せておけばいい」となってしまうと思うんですよね。それは違うと思うんですよ。

 やっぱり、全体の中で、その担任の教師、あるいは教科の教師、あるいはそばにいる子どもたちが必要に応じてその児童・生徒さんに関わっていくということができれば、一番ベストだろうと私は思っています。

「当たり前に市民生活ができる」ゴールに向けた教育を

小国教授)後者の方だけ、答えさせていただきたいと思います。

 国連の議論などを見ていますと、インクルーシブ教育の利点について語ることは「アパルトヘイト」とか「奴隷制の廃止」の利点について語ることと同じである、と。これは、男女共学の話が戦後に出てきたときの話と結構近いなと思うのです。つまり、戦前は男女別学で、戦後に男女共学となったときに、多くの教育関係者は反対したわけです。これは、本当に失礼な話なんですが「女子学生と一緒にしたら男子学生の成績が下がる」というわけですよ。そして「男子学生と同じにしたら、女子学生の女性らしさがなくなる」というわけですよね。これはもう今から考えたら差別以外の何物でもないわけですが、当時は差別とも思わないで、当たり前のようにそういう発言がなされていた。これと同じような話になっている部分があるのだと思います。

 つまり人間として生まれ、同じ権利を持っている中で、自分の意思とは関係なく、なぜ違う場に措置されるという事態が許容されるのか。そういうこと自体があり得ないのだ、という話です。一緒にいつもいるのが当たり前だというのは、逆に言うと「分けられるということ自体の根拠はない」という話でもあると思うんです。

 さらに、国立市の場合で、そのすごくこの話がわかりやすいと思うのは、国立市は、先ほど雨宮教育長さんから話がありましたが、本当にどなたにうかがっても「障害者が一番暮らしやすいまちっていうのは国立市なんだ」とおっしゃいます。それほど自立生活が当たり前のようにできている行政体である、と。

 大人たちが当たり前のように、障害を持っていようが持ってなかろうが、当たり前のように市民生活ができる。「これが一つのゴールである」と考えたときに、そこのゴールに向けた小学校、中学校の教育というのはどうあるべきなのか。障害のある子が何か特別な空間で、大人とだけやり取りをして学ぶということは、やはり自立生活を一つのゴールと考えたときには合わない話だということ自体は、非常にわかりやすいと思います。

 そういう意味では、この中にいる飯田さんがYahoo!で書かれた記事を読みました。特別支援学校の先生がインタビューに応じていて、「特別支援学校は一種の隔離になってしまっていて、そのことは大人になった後の隔離生活を前提として想定しているからではないか」という趣旨の発言が取り上げられた記事でした。やっぱりそういう問題につながってしまうということへのアンチテーゼというか、そういう問題意識があるからこそ、フルインクルーシブ教育を掲げられたんだろうと。勝手に私の方でそんなふうに解釈させていただいているところです。

異なる立場の保護者の対話の可能性は?

記者)雨宮教育長に。昨年2回、語る会を開かれたということでした。具体的に保護者の方が中心だったと思うのですが、どのような方が出席なさって、どういった声が出てきたのかということが1点。

 それから確か今年に入ってからだと思うのですが、発達障害の親御さんの会と市長の話し合いの会もあったとうかがっています。そのあたりでどういったことを皆さんが心配なさっていたのかということや、市としての見解を。

 あと3点目が、これはどなたにおうかがいしていいのかちょっとよくわからないんですが、元々その障害者を普通学校へっていう運動って、とても、とても、長い運動だったと思うのですが、そういった歴史ある運動と、その発達障害をお持ちのお子さんたちの親御さんたちの不安を抱えたこの状況とで、その二つの人たちがなかなかこう、一緒の場で話し合う場がこれまでなかったっていうのは、ずっと気になっていたんです。たとえば国立の皆さんの語る会だとか、そういった場で今後、対話が生まれるような可能性というのを感じているのであれば、ぜひそのあたりをうかがいたい。

雨宮教育長)はい。3点いただきました。語る会は、当事者の保護者の方が多かったなという印象はあります。関心がある障害をお持ちのお子さんの保護者さんですとか。ご自身のお子さんが特別支援学級に通っているとかですね。そういう方が多かったなと思っています。ただ、そこでの全体感としては、先ほどもちょっと申し上げた部分があるかと思いますけれども、皆さんの共通理解としては「やっぱり大事だよね」というのが共通理解だっただろうなと思っています。ただ、その一方で「その中でもそんな簡単にできることじゃないよね」みたいな話もあったかなと思っています。それが1点目ですね。

 それから発達障害の方々のお話ですけれども、そういう方々とお話し合いをされたということを私は市長から聞いています。そのときに、これもさっき冒頭で申し上げたのですが、今、発達系の特性があって、個別の支援教育を受けている中において、「すごくそれでよくやっていただいてありがたい」というようなご意見があって、「市長はフルインクルーシブということを言っているけれども、今のよくやってくれているもの、それをなしにしてしまって、みんな一緒にしてしまうのですか」という危惧というか、そういう声をいただいたみたいです。市長は「そうではないですよ」と答えたみたいです。それは当然私もそうだと思っています。「今の場所が居心地がいいよね」と思っているお子さんや、あるいは少人数の中ですごくゆったりとした気持ちで学べているお子さんが、いきなりその35〜40人の中に放り込まれて、ワサワサしたところで学校行けなくなってしまったということになったら、これはやっぱり本末転倒だと思っていますから。それでは全然やる意味がない。ですから、そのあたりについては、これもさっき申し上げましたけれども、今やっていることの延長線の中で、「でも、もっとみんなが一緒に学べていけたらいいよね」という形をどのようにつくっていくのか、というところがこれからの課題になってくると思っています。

 3点目も今のと多分似ていると思うのですが、これは私達はですね、市長ともずっと話をしてるのですが、対立で終わらせてはいけないんだと思っています。いかに対話をしながら、お互いの一致点というんですか、そこをどう見つけていけるのか、というところが、これも課題だろうと思っています。そこは本当に丁寧にやっていかなければいけないと思っています。

 あと、結局ですね、今のその教育…教育というか教師の人たちっていうのは、今の制度、「特別な支援が必要な子どもたちは、特別支援学級だとか特別支援学校だよ」ということでしか多分、教わってきてないんだと思っていて。これはすみません、もしかしたら違っているのかもしれないのですが、そういう教師の人たちに「いやそうじゃないんだよ」というのを、どのようにして分かってもらうのかということも、一緒に考えていけたらいいのかなと思っています。

「国の制度が変わるのを待っていたら踏み出せない」

記者)国連が昨年の秋に勧告を出して、「分離教育の廃止に向けて、国にその行動計画をつくってください」という勧告をした後、文科省は「今現時点では分離教育を変えるつもりはない」と回答し、そのあとは全国的にも国や自治体の中で表立った動きはなかったと思う。そうした中で、あえてフルインクルーシブ、障害者権利条約ベースのフルインクルーシブ教育を掲げるというのは、とても重要な意味があると思っていて、自治体レベルからこういう取り組みをやっていこうというのはすごい意義があることだと思う。先ほど工程表の話もありましたが、具体的に学校運営とか授業のやり方を通してですとか、その辺の具体的な話を工程表に盛り込んだりしていくことが想定されると思うし、先ほどの話では「なかなか時間がかかる」というお話があった中で、フルインクルーシブの実現に向けて、いろんな課題とか論点があると思う。

 また、これ、これ、こういうことを共同で研究して、なおかつ現場の実践に反映させていく。で、大学の方は、その国立市だけではなくて他の自治体にも波及させていきたいという考えだとは思います。プラスなかなか現時点ではインクルーシブ教育の研究者って多分おそらく限られていると思います。この協定によって現場での知見を経て、大学側にとっても研究者養成に向けて動き出すのだと思いますが、そのあたりを両者にお聞かせいただきたいと思います。具体的なことを。

橋本教育部長)まず「ロードマップでどこまで?」というところなんですが、当然、最終形を目指すときに、なかなか今の国の制度と、単独の市でどこまでできるのかという、そこの難しさは非常にあると思ってます。そういうところがですね、やはり教育長の申したやはり時間がかかる部分です。

 ただ一方で、国の制度がある程度変わってくるのを待っていたら、これはなかなかフルインクルーシブに踏み出すっていうことができないで終わってしまう。ですから、国立市教育委員会としてですね、できるところの実践を始めながら、とは思っています。まずその本当にすぐできること、そして中期、長期という、そんな枠組みになってくるのかなと思っています。当然その中にはですね、授業改善というようなことも含まれてきますし、あの、先生方にやっぱり実践例で「こういう成果があった」とか「こういういいことがあった」とか、そういうことがまずわかるような何か積み重ねをやっていきたいな、と思っています。そういうところから広めていきながら、最終目標をどういうところに置くかというところも、今年度中に、いろんな合意形成をはかりながら整理していきたい。そのように考えているところです。

「国連勧告は文科省に響かなかったが、若者に響いた」

小国教授)大学の方の取り組みを少しだけ。実は昨年秋の国連勧告の後に、学生たちはですね…。これはだから、あの勧告というのは文科省には響かなかったのですが、若者には非常に響いたという実感があるんです。

 「インクルーシブ教育を研究したいんだ」という学生が急に増えてきました。私のところの研究室のM1の学生2人とも、今日の式の受付を手伝ってくれた人たちで、後でもしあれでしたらちょっと話を聞いていただけたらありがたいんですが、インクルーシブ教育がやりたいんということで入ってきてくれた学生さんたちなんですね。そういう意味で、やはり若い人たちは「学校を変えなきゃいけない」と。今、東大生もですね、やっぱり学校の中で傷つけられた体験を持って大学生になっている子はすごくたくさんいるという実感もあります。ですから、こういう抑圧とか排除の問題に対しては、すごくセンシティブに考えられるような、そういう若い感性が育ってきているなという気もしています。

記者)他の自治体への波及といった点は?

小国教授)今、我々としては大阪府吹田市なんかとの連携協定も結んでおりますので、あの、そういったところも含めて。それから、できたらこういう形で、いろんな自治体と連携協定を結ぶ中で、必ずしもその一方的にノウハウを提供するという話ではないとは思うのですが、一緒に大学として取り組んでいけたらな、というそんな思いです。

「言葉だけでは十分に波及していかない」

星加良司・東京大学バリアフリー教育開発研究センター教授)

 他の自治体への横展開といいますか、そういう形でその普及を図っていくっていうことは、まさに研究側、大学側の仕事だと思っています。

 権利条約をはじめとして、権利の言葉で語るための枠組みっていうのは、条約を含めた実定法の世界でもそういう方向性になっていますし、規範的、どうすべきかということについての考え方というのは、少なくとも、国際的な水準では方向性が出てきているのかな、というふうに思います。けれども、やはり近年、他のダイバーシティの問題、多様性を巡る問題に関してもそうですが、「何が正しいか」とか「何が望ましいか」という言葉だけではなかなかまわりへの影響度が小さいといいますか、十分に波及していかないっていうところがあるかなと思っていまして。

 これはあの、善し悪し、特にその教育行政においては善し悪しだと思うのですけれども、やはりそれを進めることでどういう効果があるのか、という形。そういう文脈での、その意味や意義の示し方っていうものも、同時に必要というか、そういうある種のレトリックをかませていかないとなかなか広がっていかないっていうところがあるかなというふうに思っています。

 ご承知のように、近年のD&I、ダイバーシティ&インクルージョンを巡る議論においても、それが集団全体に対してどういうポジティブな効果を持つのか、みたいな形の議論をかませる形で社会的な注目度、関心が高まってきた、という現実もあるかと思っていまして。

 その意味では、このインクルーシブな環境の中で学ぶという実践例を積み重ねていくことを通じて、それが他の生徒を含めて、どういう広い意味での教育効果を生むことになっているのかっていうことについて、言語化をしていく。ある種のエビデンスを蓄積していく。そのことを通じて、そうした実践に取り組むことも、インセンティブを広く作っていくみたいなこともできると思いますし、そういうことに使える研究、資する研究というものを行っていくこと、あるいはそうした研究に関心があり能力のある人材を育てていくということが、大学としての重要な役割だと思っています。

 この連携協定の期間の中で、そうした状況を大学側でもですね、並行して準備しつつ、相互にプラスになるような。「相互に」というのは、そうした知見を用いて、国立市の中でもその実例・実践例というものが広がっていくことに貢献するとともに、そうした実践例を通じて大学側の知見を充実させて、さらにあの広い文脈、社会的な文脈への波及効果というものについても作り出していけるような、そういう取り組みが大学としてはできるといいかなというふうに思っているところです。【(4)に続く】

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