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空気がないと生きていけない?

【空気VS神】

「空気がないと生きていけない」この文章に真っ向から反論しようとする人間は少なからず「まともな人間」とは言い難いはずだ。人間に限らず地球上の多くの生物は空気がないと生きていけない。 言い換えれば…
   
   目には見えないが生きていくうえで欠かせないものが空気だ。

では、「目には見えないが生きていくうえで欠かせないもの」は他にはあるだろうか?もし、あなたにクリスチャンの知り合いがいればこう言われるであろう。
  目には見えないが生きていくうえで欠かせないもの…それは神だ。
天にあらせられる父なる神は我々には見えないが、人間は神に生かされているのだと。あなたがもしクリスチャン以外であるならばこのような答えはものすごく違和感を感じるであろう。そしておそらくこのように考える。

「毎週日曜日に教会に通う敬虔なクリスチャンも、路上で托鉢するお坊さんも、神などいないと信じてやまない無神論者も空気がなければ生きていけない。しかし、神の存在は結局その人の信仰心に依存するじゃないか」と。神が実際にいるかどうかという議論はさておき、このような考え方に対し私の中で、次のような単純にしてそれでいて少し厄介な疑問が生まれた。

なぜ「神がいないと生きていけない」というものすごく議論を呼びそうな文に対して「空気がないと生きていけない」という科学的事実はこんなにも説得力があるのか。


【タイムマシンで1000年前の日本へ】

この問いを私は、少し視点を変えて考えてみることにした。仮にタイムマシンが開発されていたとして、今から1000年前の日本へ行ったとしよう。そこであなたは出会った人に言う。

「あなたも私も同じ人間で生きていくためには空気をもってして、肺呼吸することが必要なのです。」

仮にこんなことを言ったら、変人扱いされるだけだ。でも次のように言ったらどうか?

「あなたも私も同じ人間で生きていくためには、御仏の教えが必要なのです。」(ここではキリスト教における神ではなくあえて仏と言っておく。1000年前の日本なので。)

まったくもって論拠はないが、少なくとも空気の件よりは受け入れられるのでは?と感じる方が多いはずだ。ここでいかに空気という存在が大切であるかを説いたところで、相手にしてくれるものはいないだろう。またそれを殊更に説いたところで空気の存在の証明方法は見つからないだろう。そこであなたは気づく。

- 私は、まともな教育を受けたから人間は空気をもってして呼吸をしており、それが生命の維持には必要不可欠であると知っている。しかし、なぜ私は自分で証明すらでない空気の存在をこんなにも信じているのか?仮にあの時の教師が嘘を言っていたら?小学校のプールの授業で溺れかけた時、苦しいと感じたがあの時の水中での苦しいという認識さえ、後に得た「肺呼吸しなければ人間は生きられない」という知識に依存しているのでは?‐

1000年前の人間にも溺死を目撃すれば「水中では苦しくなり、陸上における呼吸ができなくなりやがて溺れる。」という認識はできるであろう。しかし、そこに「空気」などという概念は入り込む余地がない。

私も学校教育でそういったことを習わなければ、プールでの溺れかけた記憶を辿ったときに呼吸がしづらく苦しいという感覚こそあれ、そこには肺呼吸という科学的な背景があったなどという知見を得る機会などなかったであろう。

ではなぜこんなにも、私たちは「科学的に正しい」ことを絶対的に信じているのか?

【人間の知覚を超えた科学】

現代社会においては空気の存在もしかり、スマートフォンの仕組み、人工衛星が飛ぶ理由等、現在は進んだ科学技術であふれている。しかし、それは一人一人が常日頃理解している範疇を超えている。説明を受ければそれを知識として理解することは可能であろう。ただこの記事を読んでいる誰もが恐らくスマートフォンも人工衛星も作れないであろう。そんな「単なる知識」を正しいと言えるのか…

「空気がないと生きていけない」という文は正しいのであろうが、それはあくまで科学的にはであろう。科学は発展こそすれ退化はしないと思っている。しかし、1000年前にはあり得なかった(もしくはあっても微弱なものであった)大量破壊兵器の誕生や地球環境の破壊を招いている。これはもう「正しいはずの科学」が暴走しているのではないか?

「宗教という存在」

一般的には「科学VS宗教」などという縮図がよく見られるが、もともと世界中の様々な宗教は歴史上のいたるところで残忍な一面を見せてきた。同じ神に祈りながらも考え方の違いで血みどろの戦いをしてきたものや、生贄と称して人間を神にささげてきた宗教もある。しかし科学技術が大きく進歩した今、現代社会においては人権という考え方が生まれ、かなり宗教も科学に対して寛容になりつつある。結局は絶対的な神という存在を頂く宗教とはいえそれを信じる人間社会の変容に影響を受けざる負えないのではないか?そういう意味では宗教も科学も人間やその社会の変容に依存している。

故に最後にもう一度ここで問う。

「神がいないと生きていけない」
という文が間違っているとなぜ言えるのか?

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