Contact but Touchless in a Gardenに関する書簡
5月某日、ワークショップのファシリテーターを務めるため、車で某お庭へ向かった。人肌くらげとしての久方ぶりの活動だ。
今回のご依頼である『自粛で悶々する現状があり、子供みたいに体をゆるゆる動かしたい(要約)』の応答として、相手へ物理的に接触せずに、コンタクトインプロヴィゼーションができるのか試みた。
参加者はわたし(内山)と池上綾乃さん(以下、彼女)の二人きり。相手の事は名前を知る程度で、お互いの性格やバックボーンは分からない。
はじめに、ちょっとした自己紹介を兼ねて、2メートル程度の距離を空けて話をする。そのあと、子どものように両腕を振り回しながら、これからの展開をどのような方向性にするか考える。
🐙体を捻って、腕を振り回す。
🐙くるくるまわる。
🐙皮膚で感じる事をひとつひとつ気にかける。
🐙屋外に溢れるさまざまな情報に気付く。
🐙思うことや感じることを言葉にする。
🐙会話・独り言問わず、発信する。
約一時間で、上記のことをおこなった。
本ワークショップは、家での自粛により閉鎖的になった身体感覚を鋭敏にする(或いは元に戻す)意図があり、あくまでも遊びの延長を想定していた。しかし、遊び以上の収穫を得た。ワークショップが進むにつれ、外から訪れる出来事の受け取り方や二人の発する言葉に、開始前とは異なる変化が起きたのである。
実際に発した言葉の詳細は、(一部)映像に載せたので、未見の方はご覧いただけると嬉しい。
久々に身を置く屋外は、想像よりも非刺激的だった。しかし、ワークショップが次々展開するにつれ、身体の感じ方に変化が起きた。
屋外では葉が揺れたり車が走ったりする。始めてからしばらくは次々と起こる出来事に無関心だったが、自分の肌感覚を意識的に気にかけるように指示すると、参加者の、外の情報を受け止める感度が徐々にあがっていった。
葉っぱのざわめく音や揺らぎは風によって起こる現象で、参加者はその様子を見て(聞いて)改めて風の存在を意識する。部屋の中で籠っていた時には忘れていた、受け止める器官が呼び起こされたようだった。
変化に気付くきっかけが、「意識しようとすると自ずと動きがゆっくりになる。」という発言だ。それ以降、他人に理解を求めて発する言葉とはまた違う、つぶやきような言葉選びが目立つようになった。奇怪な雰囲気をまとう発言たちは、まるで参加者の感覚器官が直接口を開けて喋っているかのように感じられる。これを感覚言語と呼ぶべきなのか。伝達以前の、意味の羅列とは異なる次元の言語が生まれたと思う。
映像編集のため、改めてワークショップ中の映像を見直すと、数々の発言への信心と疑念のジレンマを覚えるが、なぜか体が強く納得してしまうようなとても不思議な体験だった。
ワークショップが終わる直前になって「触らずにコンタクトする」になぜ私がこだわるのか腑に落ちた。まず空間があり、ものがあり、そして同じように人間がたまたまその中に居るだけの偶然性が表現の基盤だと考えていたのだ。今回で言えば、あの土地には植物が生え、古家が立ち、人間(参加者)がいる。それらがすべて等しい存在であることを、このワークショップで実感しようと試みたのではないか。
以前より、物理的に触れるダンス的なコンタクトインプロヴィゼーションの形態に疑問を持ち、身体表現を探求するための別の切り口はあるか探っていた。そんな中、Covid-19が世界に広がりパンデミックが発生した。日本においては『3密』が推進され、『触れずにコンタクトする』について考える思考の時間とタイミングがぴったりと合ったことは面白い偶然だった。
このワークショップが、身体表現作品として観客相手に耐えうる強度を持つかというと難しいだろう。表現するよりも、もっと手前の段階にある感覚を呼び戻す試みである。開催当時、おわりがみえない自粛の中で自分自身の身体感覚がどんどん鈍化する自覚があった(似たようなことを綾乃さんも感じていた模様)。悶々とする現状を打破するため、外界から訪れる情報を敏感に感じるための働きかけをおこなったが、それは作品化するために必要な要素のひとつでもあったと思う。そんな表現の欠片を収穫とし、今後の活動にも反映させたい。
久しぶりの屋外、気持ちよかったな~(日焼けはすごい後悔したけど🥺)
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