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マインドフルネス4

2023年3月25日(土) くもり
20日ぶりのカウンセリング。この1週間は天気が悪くて、この日もうまく眠れずに頭がボーっとしていた。そのことを伝えると先生も「ここ数日は気圧がひどいですからね」と同意してくれて、俺の浮き沈みも普遍的な誤差に過ぎないのだと納得できる。先生のように多くの人間を観察していると、個人よりもっと集団的な流れが見えてくるのだろうと思う。お互いに影響し合わないはずの他人が同じような不具合を訴える奇遇というものがある。それはきっと人間だけじゃなくて動物も同じだろう。どれだけ努力しても雨を降りやませることはできない。自分を責める必要はない。

言葉はあくまで、自分自身や世界を理解するための道具に過ぎない。しかし便利過ぎる道具はときとして自分自身や世界をその意味の中に閉じ込めてしまう。「HSP」という言葉もそうだ。Highly Sensitive Person。生まれもって過敏さを持っているがために社会の中で生きづらさを感じている人間、という意味になるだろうけれど、その言葉はあくまで個性を説明するための道具に過ぎない。俺がこの言葉を使えるのは、長い時間を経て、先生とのあいだで自分自身のことを説明し尽くしたからだ。言葉の意味よりも、俺と先生のあいだにある時間の方に意味がある。もはやHSPという言葉を使っても何も失われないし、むしろ使った方が話が早い。俺自身の理解と可能性にとって、この順序はものすごく重要なものだと思っている。
同じように、「マインドフルネス」というのも難しい言葉だ。俺自身その意味するところを理解していない部分も多い。瞑想と言い換えるるとわかりやすいが、それでは認知行動療法としての側面が抜け落ちてしまう。これは言葉で説明できない、わからないまま実践するしかない、と先生も言っていた。アルフレッド・ヒッチコックは、サスペンス映画を成立させる要素のことを「マクガフィン」と呼んだ。マクガフィンという言葉自体に意味はなく、映画にとって意味のあるものがマクガフィンなのだという。だとしたらマインドフルネスは俺にとってのマクガフィンだと言えるかもしれない。それが何なのかはまだ説明できないが、俺の人生が進むにつれてその意味が浮かび上がってくるはずだ。今はそれを信じてやってみるしかない。

言葉に関して言えば、カウンセリングを重ねるなかで俺は二つの使用を許してきたことになる。「HSP」と「マインドフルネス」。どちらもこれまでの俺の言語感覚に馴染まない、違和感のあるフレーズである。しかし、自分のなかにある言語化できない何かに言葉を与えることが治療の本質だとすれば、こういったフレーズを使い始めたことは治療が進んでいることの証拠といえるのかもしれない。そしてさらにもうひとつ、これから使っていかなければならない言葉が目の前に用意されている。
「トラウマ」。その言葉はあまりに人口に膾炙していて、もはや意味を失った空々しい響きすら感じる。もし使うとすれば、戦争生還者や犯罪被害者のためにあるものだと思う。それを易々と、家庭とか学校とか恋愛とか、誰しもがひとつやふたつ経験するような傷に対して使っていいものとは思えない。かろうじてでも社会生活を営めている自分にはふさわしくない。本当に必要としている人間のために、その言葉を消費しないで守っておくべきだ。しかし、そんな奇妙な謙遜こそ、俺の苦しみそのものなのかもしれない。言葉を使わないことで、俺は意味の外に閉じ込められてしまう。必要な道具を手放して、裸足で山を登ろうとしている。他人にだったら言えるのだ。言葉なんてただの道具だ、あなたが苦しいのならそれはどんな言葉を使って表現してもいい、と。トラウマに大きいも小さいもない、あなたが傷ついたのならそれはトラウマとして扱っていい、と。いや、それは嘘だな。俺は他人にも言えなかった。扱ってはいけないと思っていた。自分がそう言えるようになったとすれば、先生から初めてそう言ってもらえたからだ。

話すたびに涙が出てくること。言葉になるのを拒むような暗い記憶。まだそれを覚えていることすら忘れてしまっているような出来事。俺のなかにはそれがあるんだ。俺はそれをトラウマとして扱っていきたい。一人でやるには勝ち目のない戦いだから、先生の力を借りていく。その内容までここに晒す必要はない。ここに書いた程度でわかってもらいたくもない。だけど、俺が静かに戦っているということだけは、どこかで知っていてもらえたら、いくらか寂しさがやわらぐような気もするのだ。

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