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マインドフルネス3

2023年3月5日(日) くもり
タイマーをセットする。ベッドの上に寝転がって深呼吸をする。静かだ。身体は楽だ。少し姿勢を直したい。直す。まずは金曜日のこと。他人の表情。言葉。態度。まだモヤモヤしている。自分は悪くないと思いたい。だけど昨日今日でだいぶ落ちついた。いまは恐怖というよりももっと実務的か。これまでと同じことを考えていてもその根本的な動機が違う。反応と思考の違い。恐怖というより不快感。部屋片づけの続きをやりたい。ライヴの準備もしないと。ライヴの準備をしたい。しないと不安か。しなくても大丈夫か。あとでまだ時間をとれる。何時の電車に乗るか。ずっと同じことを考えていた。考えていることに気づかなかった。だらだら流されているのは慣れてきたからだろうか。それにしても今日浮かぶのは悪いことばかりではないな。そういうときもあるのか。アラーム。10分。

今日は2週間ぶりのカウンセリングの日だ。出かけるまでに少し時間が空いて、マインドフルネスをした。1月のはじめにレクチャーを受けてからほとんど毎日続けているが、頭のなかで行われることなのでいまだにどんな状態が正しいのかわからない。マインドフルネスを「した」という言い方が正しいのかもわからない。しかし、その正しさにこだわることがマインドフルネスを遠ざけるであろうことも感じている。マインドフルネスを続けていると、この作業にいったい何の意味があるんだろうと思う。どうせやるならもっと、自分を評価したり、思考に方向づけしていく方が有意義なのではないかと思う。もちろんそれもマインドフルネスから遠ざかる結果になるのだが。

結果や意味を求める限り得られない何か、というのがおそらくあって。内田樹が言っていたところの学校教育の話を思い出す。「これを勉強していったい何の役に立つんですか」と聞かれたときにどう答えるべきか。内田樹の理論で言えば、「その質問に答える必要はない」ということになる。その質問に答えられるようになること、自分自身が変化していくことが教育の成果だからである。屁理屈のように聞こえるかもしれないが、自分にこれから訪れる成果は決して先取りできない。「何の役に立つか」という質問は、教育を商品としてとらえる消費者の精神に基づいている。しかし教育というのはお客様の立場で消費する商品ではなく、主体自身が変化していくための時間的な過程のことだ。消費者の権利を主張して誰かに用意された結果を順番になぞっていくか。もしくは自分自身が変化し続けて同じ体験のなかに新しい価値を見出していくか。そのどちらが教育的か、という話だ。

マインドフルネスも同様に、それをやったら自分がどうなるのかという成果を先取りすることができない。おそらくは数年単位で時間がかかることだ。しかし俺はそれをやる意味を知っている、というか、ときとして意味が邪魔になることを知っている。その想像のつかなさに飛び込んでみたいのだ。俺は10代のときに思い描いていたとおりの自分にはなれなかった。だけど、もし10代のときに想像したとおりの自分になっているとしたらそれほど退屈なことはあるだろうかとも思う。何も知らない子どもの想像力のなかに留まる程度の自分だったら、歳をとって老いていく楽しみもない。そんな気がする。

「嫌われたくない、見限られたくない、と感じるのはなぜだと思います?誰に嫌われても見限られても五十嵐さんの価値は変わらない。現実は変わらないんです。それなのに何がそんなに怖いんでしょうか」

俺はその返事を探すが、頭のなかが真っ暗になって何もつかめない。現実には何も脅かされないこと、それは情報として知っている。ここで散々学習してきたことだ。しかし、嫌われることの怖さ、その疑いのなさ、自分のなかにあって揺るがないこの感覚をどうしても客観的に見ることができない。「すみません、今はピンとこないです。なんかぼんやりとしてます」と苦しまぎれに答えた。先生は頷きながら、「ぼんやりしていて当然なんです。大脳辺縁系はそこに触れてほしくないから。考えさせないようにしている。それほど核心的な部分だともいえる。暗闇のなかに箱があるんです」と言った。その説明を聞いていて、俺はなぜだか涙がこぼれそうになった。いやぁ、今もなんだか涙出そうですね。その理由を先生に聞かれてもういちど言葉を選ぶ。「寂しかった、ですかね。そういうものが自分のなかにあるんだ、と思って」と言いながら俺は先生の目を見れない。「これまでずっと一人きりでしたもんね。でもこれからはここで一緒に扱っていけばいいことです」という声が聞こえて、少しだけ泣いた。

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