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脳と反応の問題

2022年3月27日(日) くもり
ここ数週間はひどく調子が悪い。鬱の瀬戸際にいるという感じだ。口内炎が自然発生したのもひさしぶりのこと。活動の疲れもあったし、住居のトラブルもあったし、3月は誕生日もあるし。でも原因なんてあってないようなもの。卵も鶏も先だ。いよいよ暖かくなってきたぞと思ってパクチーの種を植えたけれど、それからまた寒い日が続いて雨も降って。ちょうど桜は咲き始めているけれど、曇り空の方が目に飛び込んでくる感じがして。どうも調子が狂うなあ。

そしてカウンセリング。話そうと思っていたことがいくつかあったのでそれを順々に話していった。それにしても最近のトレンドはもっぱら「大脳辺縁系」だ。先生またその話ですか、と思うのだけれどだってその話なんだからしょうがない。先生の説明を受けているうちに俺はぐうの音も出なくなる。

俺の考え方にはいくつかの癖があって、それはたとえば『自分がいることで何か悪いことが起きている。自分がいなければこの場はもっとうまくおさまっている』というもの。そして『自分のふるまいで他人が気分を害している。その責任は自分にある』というもの。ひらたく言えば不安なのだけど、それがありとあらゆる場面で形を変えて現れているだけなのだ。不安には何か原因があってそれを取り除けば解決するのではないか、と信じて努力した時期もあったけれど、その努力すべてが無駄だったと今の俺には断言できる。
つまり俺は、判断と行動の問題だと思っていたのだ。もっと言えばそれ以前には家庭と性格の問題だと思っていたこともある。しかし、カウンセリングを続けていくうちにそれらが見当外れであるとわかってきた。家庭と性格については取り上げるまでもなく、そして判断と行動の問題でもなかった。それは認知と感情の問題なのであった。認知の歪みに気づいて無駄な努力をやめる。不安という感情に対して自らを曝露していく。カウンセリングではその地道な練習をひたすらくり返してきた。しかし。しかしだ。今やそれすらも間違っていて、これは脳と反応の問題である、ということになってきたのである。
俺が感情だと思っていたものはただの反応に過ぎない。その反応を起こしているのは前頭葉ではなく大脳辺縁系という脳の一部である。前頭葉は言葉でモノを考えることもできるが、大脳辺縁系は言葉を持たない動物の脳だ。だとしたら、それってつまり、人間の俺にはどうしようもないってことじゃん?

太田光から叱責された田中裕二が、「俺に言うな。俺の脳に言ってくれ」と言い返した、という爆笑問題のエピソードがあるが、いよいよそれを笑えなくなってきた。俺は俺の脳の奴隷。大脳辺縁系のリアクションに過ぎないのか。
 
突然、先生が机を叩いた。バンっと大きい音が鳴って俺は驚く。恐怖を感じて緊張が走る。逃げろ、と脳が命令する。俺はその音の意味を、先生の行為の意味を必死で考えようとするが、それでは遅すぎる。遅いというか、その手続き自体が見当はずれなのだ。動物の脳は生きるか死ぬかの瀬戸際に立っているのだから、意味を考えているあいだに死んでしまうかもしれない。だからこそ人間の俺に考えるスキを与えない速度で、絶対的なリアリティを呼び起こして、恐怖の信号を送るのである。俺にできるのは信号をしっかり受け取ること。必要に応じて逃げること。そして難が去ったら何事もなかったかのようにケロッと普段の姿勢に戻ること。

「惜しい!それは五十嵐さんが考えてるんじゃないんです。それもただの反応なんです」

先生からそう言われて笑ったのを覚えているが、その前後の話をすっかり忘れてしまった。ただの反応。俺がこれまで感じたと思ってきたことって、考えたと思ってきたことっていったいなんだったのか。次は5月に予約したけれど、また大脳辺縁系の話だろうな。その頃には暖かくなって、パクチーも大きくなっているかもしれない。

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