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藤子・F・不二雄ミュージアム

川崎といえば俺にとっては川崎駅のことで、京急川崎駅からクラブチッタに抜けるあたりまでが川崎のすべてだと思っていた。それがどうやら西に向かってフロンティアが広がっていて、藤子・F・不二雄ミュージアムはその最南端にあるらしかった。
ジョン・レノン派かポール・マッカートニー派か、そんな議論にはまったく意味がないぜ俺はザ・ビートルズ派だ、とか思うけれど、F派かA派かで言えば俺は間違いなくF派だった。それは御多分に漏れず『ドラえもん』を読んで見て育ってきたからだし、早朝に再放送されていたアニメ『21エモン』も好んで見ていたからだ。アニメ『21エモン』の監督は原恵一で、特に主人公エモンの実家である”つづれ屋”でのやりとりなんか、どこか小津安二郎作品を思わせる演出もあったりする。そして、宇宙飛行士を目指す物語ではあるけれど、夢や希望よりも宇宙の真っ暗さ、その広大さに対する無力感というか、絶望感みたいなものを感じさせる場面の方が多かった。

そして特筆すべきはやはり『SF短編集』の存在である。冨樫義博の『レベルE』みたいな、つの丸の『サバイビー』みたいな、ベストアルバムに入っていない名曲を自分だけが発見したような喜びがある。それまで、”ブラックユーモアはA”というイメージがあったけれど、藤子不二雄Ⓐ『笑ゥせぇるすまん』なんかのダークさは意外と勧善懲悪的で、調子に乗ってると痛い目に合うぞというシンプルなオチが多かったように思う。それに比べてFの『SF短編集』の場合は、最初から最後まで状況が変わらなかったり、安心できるようなオチがなかったりもする。それでいて絵柄は『ドラえもん』と変わらないポップさがあって、よりいっそう救いも教訓もないように感じた。
あらためて読み返してみると、『SF短編集』に一貫しているテーマのひとつとして、”言葉が通じないというのはどういうことか”があるような気がした。違う星の生物は違う倫理観を持っており、たとえ同じ外見をしていても、同じ言語を使っていても決して通じあうことがない。それをたった2コマで表現しているのが『ミノタウロスの皿』で、「助けてと言ってくれえ!!」「そうでしょ。おいしそうでしょ」というクライマックスでのやりとりは、Tシャツにプリントして毎日着たいくらいだ。それは決してSFの世界に限られたファンタジーではなく、日常に垣間見える人間のディスコミュニケーションそのものだと感じる。助けてほしいと願っていない人間を助けることはできないし、いつか伝わるはずだと信じて言葉を尽くしても最後まで伝わらないことだってある。その無力感と宇宙の真っ暗さが、藤子・F・不二雄作品のなかでつながっているように感じる。

藤子・F・不二雄ミュージアムにはいつか行ってみたいと思っていて、でも登戸っていう駅にどうやって行ったらいいのかわからなくて行けなかった。今回、企画展が「SF短編原画展」だということもあって、勇気を出して登戸を目指すことにした。『ミノタウロスの皿』の原画も展示されていたし、特にビッグコミック掲載時とコミックでの加筆修正を見比べることができたことがとても良かった。あとで調べたところ、『オバケのQ太郎』や『パーマン』のヒット後、長年のスランプを抜けるきっかけとなったのが『ミノタウロスの皿』だったようだ。児童向けの作品しか描けないと思って断っていたが編集者からの要望に応えて描いてみることにした、と。そして、"自分にもこんなものが書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました"と語っていたという。そしてそのあとすぐに生まれたのが『ドラえもん』なんだってさ。

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