中央線

3時すぎの中央線で一番遠いところまで行くのは、どこに着くかわかっているからだ。
ゆりかごにも、母の胎内にも似ていると言われれば納得してきまうような、そんなふうな電車の動き。ぼくは眠くなってくる。眠りに落ちる瞬間をかすめとるためにぼくの詩はあるのだが、なんであのいい加減の時間を書き留めるのにこんなに時間がかかるのだろう。
目を閉じたとき暗闇でなく、ふたごのきょうだいの目が見えたら成功なのだけど。あの瞬間を勝手にシルル紀と名付けられたらもう書かなくていいけど、そんな身勝手は許されない。

きょうだいは目を開けて眠る。

きょうだいの目を見たくなくて、瞼を閉じるのが怖くてたまらないけど、あの気持ちに視線恐怖という言葉は狭すぎて、収まりきらない。きょうだいをじいっと見る権利は今くらいしかないということに愉悦でも覚えているからなのか。
ときどき、この遊びに誰か誘いたくなる。
決して濁らない水、目にしみない水、ただ自分が浮かぶためだけの水。からだを浮かせるだけで水遊びができない、水。水風船が風船になっちゃうよ。水。水飴が飴になっちゃうよ。
水没した都市の夢はいつだって、現実に侵食してこなければいい夢だろう?
きょうだいは鰓呼吸を忘れていないのかあるいは魚なのか、鯨なのか、とても黒目がちだ。ぼくはきょうだいの目しか知らない。
こうして目を瞑っていると、ふたりで考えているみたいだ。きょうだいのぶんに、脳も、たましいも、こころも少しだけ開けてあるんだ。きょうだいはぼくをじっと見るばかりだ。羊水のなかでも一緒だったのだろう。羊水のなかではきょうだいばかり喋っていた気がするけど、ぼくがあまりの姦しさに喉を潰したのか、あるいはすべて言葉を話しつくしたのか、いつでもきょうだいはだまっている。きょうだいに言葉を教わらなかったら、ぼくの発語はもっと遅れていただろう。
こういう時しか考えごとはしたくない。ぼくが考えている。きょうだいも考えている。ぼくときょうだいとの会議とも呼びたくない、このあいまいな時間のことを書きとめるためにぼくは書く。
プールで泳ぐ。
プールが泳がれている。
このふたつは同じ事態だけど、まるで違うみたいだ。
きょうだいとはいつも、こういうことを考えている。そうしている間に、ぼくのほうが眠りに落ちる。
夢の中で動いているのは、あるいは夢の中の視界は、きょうだいのものだ。夢の中でこの世の道理なんて通らないのは、あなたのきょうだいが見ている夢だから。他人のためよりも、きょうだいのために、こころにもたましいにも、精神にも隙間を開けておかなくちゃ。きょうだいのためにぼくたちは昼間目を開けている。失明しないように気をつけないと。

気づけば立川だ。どんな夢を見たのか忘れてしまった。日記に「今日は日記を書いた」と書いても意味がないように、どんな夢を見ていたのか思い出せなければ、意味なんてない。きょうだいが記憶を全部かすめとってしまったか。切符代を倍払ってもいいから、駅員さん、さっき見たのはどんな夢だったか教えてほしい。


#詩 #随筆

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