殴り書き

ちょっと吐き出したくなったので、書いています。特に真に受けないで下さい。
この世には様々な人がいます。善良な人もいれば、そうでない人もいますよね。私に友好的な人もいれば、敵対的な人もいます。ちょっと突っ込んだ事を言うと、客観的な善悪は存在せず、利害だけがあるなんて考え方の人もいますね。まあ、どちらにせよ、人は多かれ少なかれ自分の理想を持っていてその理想に反している人を敵ないし悪と考える訳です。

世の中の多数派は、自分の価値観なんて持っておらず、大衆が是とする事を模倣して反復しているだけかも知れませんが、それはまあどうでも良いです。それは間違っているかも知れないし、正しいかも知れません。中にはそういう外部の評価は不可能で、社会自身が社会の正当性を決めるのだという人もいますが、それもどうでも良いです。

「普通の研究」という文章を書こうと思っていますが、色々と書きたい事があってまとまりません。草稿はあるのですが、取り留めがないです。
普通という概念も不思議で、人間の(統計的)平均とか標準とかとは別に、人間は「普通こうあるべき」という発想をするみたいなのですが、これも言語化が難しいですね。常識という概念にも近い部分があります。
こういうのは近代の宗教であると私は思っていて、最後の宗教とも言えるかも知れません。普通であるという事は正常であるという事とも関連があって、普通ではないというのは一般には褒め言葉にはあまり使われないですよね。変だなとか変わっているというのも同じです。
普通ではない人は、攻撃されたりいじめられたりする事があります。不思議なのは「普通ではない人を攻撃する事」は「普通に考えておかしいのではないか?」という問題提起が成り立たない事です。
結局、人間は論理とか理性で動いているのではなくて、自分たちの利益になる生物と群れをなし、それを脅かす不穏分子と見なしたものを排撃する生き物なのだと思っています。
普通というのも一種のエコーチェンバーで、そのエコーチェンバーの中でどれだけ「普通」なのかが価値を持ち、それから外れている異常な個体は攻撃されるのです。
多様性という言葉がありますが、本当なら普通ではなくてもある程度は共同体において包摂していくべきだと思うのですが、今、社会はどちらかと言えば、多様性という概念に疑義を表し、同質化、均質化しようとしているように見えます。背景には宗教的伝統や政治的意図、あるいは経済的理由があるでしょう。それもまあ、私はどうでも良いです。それを分析して、何らかの運動で解消したいとか思わないですし。私は、自分と身の回りの人を守れれば良いので、何とか偏狭な人がいる世界だとしても生き残る術さえあれば良いので。

紛争とか、色々きな臭いですが、そういう世界の中をサバイブしていかなければいけないのは今に始まった事ではないですしね…。

私が嫌だなあと思うのは、人間が自分は真に理性的だとか論理的だとかあるいは知的だと思っていながら、陰謀論とか疑似科学にどっぷり浸かって、それに対して無批判でいる事なんですね。自己批判とか言うと政治左翼かと思われそうですが、クリティカルシンキングを自分自身の思想にも適用して貰いたいと思う人が多いです。私の通っている教会でも、陰謀論の影響はすさまじく、宗教の教義、科学の知識、偽科学、陰謀論を分析して分類し、別の箱に入れておくという事ができない人が無数にいます。
神はこういう人間を(だからこそ)哀れんでいるのかも知れないですが、正直付き合いきれないという事が多くありますよね。
「ウクライナ支持であるならイスラエル支持であるべきだ」とかもそうですけど、テロは良くないにせよ、こんな露骨な絶滅政策を取っていたら、テロも起きるよなと思う訳です。ロシアもイスラエルも国際法を守ってほしいですね。でも、宗教の集会だと左翼か、宗教右派しかいなくて、私の考えを理解してくれる人は殆どいなかったりします。面倒ですね。だから、私は自分の考えを喋らなくなりました。恐らく、そういう人は無数にいます。

本当に面倒ですが、面倒だからこそ、コツコツ取り組んでいかなければならないと思います。以上、吐き出しでした。


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