腕時計。思い出は歴史 【style】
腕時計は、数少ない男のアクセサリーだ。昔は酒やタバコと同じく、大人の証明のようなアイテムでもあった。
だが私が小学生の頃には、学校には着けてはこないものの親や親戚に何かの祝い事などで買い与えられていた子は少なからずいた。だいたい自慢話とともにそれを知るわけだが。
我が家のように由緒正しい庶民の家庭では「明確な必要が生じたときでなければ」、腕時計のような高価なものは欲しいからと言って買い与えてもらえるものではない。
事実、初めての腕時計は電車通学をするようになった高校入学のときだった。CASIOのデジアナ、液晶で針を表示するモデルだ。
だが弟は違った。私同様友達に自慢話を、おそらくはイヤミったらしく聞かされたのだろう。腕時計が欲しいと泣いて懇願したのを覚えている。
親が買い与えた時計は、確か「スクールタイム」という2,800円の子供向けの腕時計。
値段まで覚えているのは購入時に私もいたからだ。残酷と言えば残酷。私は
『お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい』
と言われて黙るしかなかった。私が6年生、弟2年生のときのこと。
話は戻る。
高校生になって初めての時計だったCASIOはベルトを交換したり今でいうカスタマイズも楽しんでいたが、(いかにも高校生らしいが)ケンカの最中にオシャカになってしまう。以後、親父のお古を使っていた。
高校を出て大学生になるとハヤリも意識するようになる。多少なりとも収入を得ることができ、そうして手にしたのが
大学時代のメインはこれだったが意外と親父のお古も捨てがたく、ネクタイを締めるシーンでは着用していた。
学業を終え会社勤めとなったなった私は、長く使える時計として(多少背伸びもしたが)ROLEXを買った。ギラギラしたコンビのデイトジャストがイバリをきかせていた時代だが、選んだのは遠目にはそれとわからない手巻きのオイスターデイト。信じられないだろうが、当時オイスターデイトは10万円台で買えたのだ。
その後も機会あるたびに時計に手を出していた。本格ダイバーズウォッチブランドとしてHEUER(TAG以前)も手に入れ意気揚々とアメリカ出張の伴にしたのだが度重なる移動に合わせた時差修正で針がズレ、帰国後には保証修理に。
アメリカ滞在中、針のズレた時計ではなとアウトドアショップで自分への土産と思ってエディ・バウワーのフィールドウォッチを購入した。アルバイトスタッフのメイちゃん(当時17歳のハイスクールガール)によると
『中身はアナタと同じmade in Japanだから安心よ!』
とのことだったが、確かにムーブメントはCITIZENだった。
1990年代に入るとメンズファッションはクラシコイタリアへの潮流が顕著になる。歩調を合わせるように、ROLEX一辺倒からヨーロッパの時計ハイブランドの浸透も進んだ。
ROLEXが大多数の日本人に認識される前からの「舶来高級時計」のオメガやカルティエなどがそうだ。
ご多聞に漏れず私もスピードマスターやサントスに走ったものだった。サントスなぞはありふれたスクエアではなく、各都道府県に割り当てひとつと言われたラウンド(丸型)を手に入れ鼻高々だったものだった。
長い付き合いの時計店から「シードゥエラーのキャンセルが出たから」と連絡があればホイホイ応じていたのだから、今思うと汗顔の至り。
その後、私生活にも変化がありコレクション(という意識はなかったが)の大半は手放すことになる。しかしハイブランドでは「自分らしいのはコレじゃなかろうか」と、エクスプローラーII (見出し写真)だけは残した。
やがて暮らしぶりが落ち着くと再び腕時計は増えていった。但し、安価でピンとくるものだったが。
数えてはいないが、カジュアルなものを含めると3か月近くは毎日替えても一周しないだけの数にはなる。毎朝腕時計を選ぶのも日課だ。基本的にはその日の装い、天気に合わせたものにはなるが、そこは気分。
そう思えるようになったのも年齢を重ねたこともある。数が増えたのは少年時代の憧れ、望んでも手にできなかった反動や枯渇感はあっただろう。
しかし今あるその中で手放せないものの筆頭が高価なものではなく、「親父のお古」というのも由緒正しい庶民らしいではないかとも思う。
時計は時間を刻むだけではない。身につけた者の思いと共に引き継がれていくものなのだ。世に知られることはないかもしれないが、小さくともそれは個人の「歴史」を象徴するものだと言えるだろう。