善きサマリア人になるためには vol.370
聖書にある善きサマリア人の例えという有名な話があります。
ルカによる福音書に記載されています。
聖書になじみのある人であれば、よく耳にする聖書箇所だと思いますが、皆さんはいかがでしょうか?
私が聖書を学んでいない一番最初にこの話を聞いたときは、そんな優しい人間なんて世の中にいるのか?と懐疑的になったのを今でも覚えています。
聖書の世界ではこのように、奉仕や施しといった部分を着目して教えを説きます。
この善きサマリア人の話を例にして、90年代にある実験が行われました。
善きサマリア人の実験
神学部の生徒を対象とした実験です。
神学部の生徒に離れ棟にある場所で説教をしてくれと頼むのですが、その途中にうずくまって苦しそうにしている老人を横たわらせておきます。
この神学部の生徒に対して、3つの条件を変えて実験を行いました。
神学部を選んだ動機が、
➀精神的な支えの手段。
➁日常生活に意味を見出すための手段。説教をしてもらう話のテーマ
➀職業としての聖職者と宗教的使命の関係の話。
➁「善きサマリア人」のたとえ話。神学部の生徒に対しての説教前の声掛け
➀「あ、遅刻だ。急いだほうがいい」という声かけ
➁「まだ数分あるので余裕があります」という声かけ
その結果、この老人を助けた比率は、神学部を選んだ動機による差よりも、説教をしてもらうテーマよりも、時間による差の方がよっぽど大きく開いたのです。
つまり、人は時間によって左右されることが優位に働くとこの実験から考えられるようになりました。
時間に心を奪われてしまうのか
この話の主軸にあるのは、「だから、心にゆとりを持ちましょう。」というところにあります。
しかし、それだけではないかとも思います。
時間に余裕のあるものがすべて、このサマリア人のように人に奉仕の心を持って接することができるかというと、そうではないのではないでしょうか。
今回の実験、互いの質問に相関関係があったかは分かりませんが、日ごろから聖書に触れたり、そういった人を救うという思いがなければ、そもそもこのような行いにもつながっていなかったような気がします。
この実験では、日ごろからの信仰よりも時間に左右されてしまうのが人間と伝えたいのでしょう。
しかし、その前提を見落としてしまっては、元も子もありません。
この実験の参加者は全員神学部の生徒です。
メタモーメントが鍵
そのうえで、時間的束縛がどの程度左右してくるのかを考える必要があるでしょう。
時間がなければ当然、余裕もなくなります。
余裕がなくなれば周りが見えなくなってしまいます。
自分が今どんな行いをしているのかが分からなくなっていってしまうのです。
だから、感情優位の状態でも常に自分を俯瞰的にとらえ、観察して自分の生き方あり方に沿って行動できているのかを考える必要があります。
善きサマリア人になろうと無理をするのではなく、善き自分、善き人間になろうとする、その姿勢が大事なのでしょう。
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