『百年泥』 混沌の中から見つけるものとは? vol.576
第158回芥川賞受賞作品。
正直、なぜこの本が芥川賞のなのかが理解できません。
つまらないとかではなく、本当に理解をして、納得をして、それなりの理由を持って芥川賞として選出しているのかが気になる本でした。
なぜか自分の意思がなく、トラブルに巻き込まれていってしまう野川と彼女を取り巻く南インドのチェンマイの土地。
そして、謎のファンタジー設定。
この百年泥を読んでの感想を書いていきます。
世界を覗ききれなかった本
私が読書が好きな理由として一ついつも挙げているのは、その著者の世界観に没入できるからといったところにあります。
しかし、見事にこの本は設定がいまいち頭に入ってこず、なかなか没入感を得られませんでした。
もしかしたらそういったところに文学的深みを感じての芥川賞なのかもしれませんが、ちょっとした拒否反応でした笑。
読むのに別に活字を追いかけるのは苦痛ではないのですが、何だか古典を読んでいるかのような感覚。
認識しているはずの文字が、文字としてしか認識しておらず、それに付帯する五感の想像という名の支援が全くもって皆無でした。
悔しさを感じつつも、自分で解釈しろといったところなのか。
非現実の最果て
最初は夢オチ、もしくは死亡オチだと思っていましたが、最後の最後までこの世界観を貫き通しました。
そもそも、南インドに来るまでが野川にとってはとんとん拍子にことが進みです。
所々でてくる過去の死んでしまったはずの人が泥から出てきたり、過去のエピソードの中にあったアイテムが泥から出てきたり、急に会社に出勤するために空を飛び始めたり。
でもこれはもしかしたら現代の描写になっているのかもとも思いました。
私個人にとってみれば常識となって捉えているものも、他者視点から見れば時には常識から外れることもあります。
特にこれだけの速度で変化をしていっている現代においては、いわゆる”普通”といった概念自体が普通性を持たなくなってきてしまっています。
この本ではそんな”普通”を正面からぶち壊す、価値観の違いについてパンチを喰らわすこと、そしてそう言っても、自分の過去の中、記憶の中からしか自分という存在は出せないという意思表示か。
内省の時
何にせよ感じたのは、主人公野川の考察の時間の多さ。
ほぼ野川の頭の中で物語が進んでいっているのでは?と思えるほどの、内省の時間で埋め尽くされているような印象を受けました。
ともすれば、この本は物語として話を楽しむだけではなく、野川が野川自身の人生の分岐点を振り返るように、私たち読者も私たち自身の人生の分岐点をふり返りながら読むべき本なのかもしれません。
私たちにとっての洪水とは何なのか、テーヴァラージは誰なのか、オリンピックのメダルは何なのか、働くとは何なのか。
そして、飛翔通勤のようにあったらいいなの世界。
そんなことを考えさせてくれる本だったのかもしれません。