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『愛するということ』 vol.164

実はこの本を読んで、もう1,2か月が過ぎようとしています。

実は1回目に読んだ時は、さっぱり意味がわからず読破したはいいものの、頭の中に全く入っていませんでした。

エーリッヒ・フロム 著書『愛するということ』は、愛され方についてでも、愛ということについて説いているわけでもなく、”愛する”という技術について話しているんだということぐらい。

正直、頭が痛かったです笑。

最近、本を読む時間を取ることもできているので、再読をしました。

その上で、このエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んで感じたこと思ったことをまとめていきたいと思います。

実は少し書き出してはいたのですが、本書の内容をあまりにも理解できておらず、筆が止まってしまいました。

まとめるにしても理解していないし、感想にしても内容が入っていないから、感じたものも薄かったのです。

初めての哲学書を読んでみて

ルームウェアの女性

私にとっては初めての哲学書でした。

小説や伝記、科学に関する新書はこれまで何冊も読んできましたが、意外と自分の手のつけていないジャンルがあることに驚きでした。

それほどまでに、自分の意識の中に哲学という概念がなかったのでしょう。

手に取らないどころか、目にすら入っていない。

まさに、自分にとっては関係のない世界だと思っていました。

哲学書を読んでみて感じたのは、とにかく難しいということ。

本の内容理解どころか、言葉がわからなくなったりよくわからないような文節で記載されていたりと、全く異なる言語の書物を読んでいる気分になりました。

著者は自分の頭の中を語るので、当然そこに共感できなければ難しいことになるのですが、これがそういうことかと納得しました。

つまり、哲学書とは私の中で、著者の頭の中を覗かせてもらうイメージです。

同じ著者の小説を読んでいるとだいたいクライマックスの展開が予想できます。

私は東野圭吾の本に小学生の頃からハマり、ずっと出される本を読み続けていたのですが、高校生の頃にほとんどの本の展開が読めてしまうようになり、それ以来、東野圭吾の本に面白みを感じなくなってしまい、読まなくなりました。

東野圭吾の本がつまらないといっているわけではなく、あまりにも面白すぎて買い漁った結果、答えの知っているクイズを出されるような感覚になってしまったということです。

現に、私の実家には50冊近く東野圭吾の本があり、そんじょそこらの書店以上に東野圭吾シリーズが揃っていると思います笑。

この、展開が読めるようになりかけていた時、自分が超人にでもなったかのような気分になりました。

だって、かの有名な小説家の頭の中がわかっているような気がしたからです。

哲学書を読むとはこの感覚が、読んでいる間永続的に起こります。

これが哲学書を読むということの面白さだと思います。

私が東野圭吾の本を50冊読んでようやく、東野圭吾の本に対してだけ、できるようになったことを1冊で、しかも初見でやるのですから難しいのは当たり前ですね。

前置きが長くなりました。

”愛”とは何かではなく、”愛する”とは何か

ハートを手で包む

本書では冒頭でも述べました通り、愛についてを説いているのではなく、愛することについて説いています。

愛するということは何なのか?

無条件の愛などと私たちはよく口にしますが、真にその意味を理解できているのでしょうか?

一つ愛すると言っても、愛することの種類を分かっているのだろうか。

そのようなことを本書では伝えています。

愛と聞けば、誰もが同じようなことを言うとは限りません。

愛というのは人によって感じるものは異なります。

では、本書での愛するということは何を示しているのか。

大きく4つの要素があります。

1.配慮
2.責任
3.尊重
4.知る

それぞれがお互いに依存関係があり、偏りがちになってしまうがここをバランスよく持ち続けることこそが、一人の人間として愛するという技術を体得するということなのです。

これだけ聞いても、大変人間として愛する技術を手にするのは難しいように感じます。

しかし、この本ではさらに次のように続きます。

愛するということは一人の人だけでなく、その人の世界、関わり、万物全てを愛するということなのです。

壮大な考え方です。つまり、愛する技術を習得するには、そもそもの性格や考え方、生き方在り方を考える必要があるのです。

そして、愛には友愛、母性愛、自己愛があるのです。

答えは自分の中に?

自分

最終的にこの本で伝えたかったことは何だったのでしょうか。

私にはまさしく、著者エーリッヒ・フロムからの人類愛を感じました。

この本を書き示すことで、私たち後世へと愛について考える時間を与えてくれ、そして自分自身と、自分の身の回りの人との関わりを追求する時を与えてくれているのかもしれません。

確かに私たちは利益にとらわれ、利己的になり、表面的な愛に勘違いをしドーパミン過多になる娯楽に溺れてしまうことがあります。

そんな私たちがそこに気づき、今一度愛するということについて考える時を持つべきなのでしょう。


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