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そんなに赦す!?vol.900

今日は今度の礼拝でのお話を書いていきます。

テーマは赦し。

別に自分の中で赦すべからずことが起きたと言うわけでもないのですが、なんと無くこの章が目に入ったので扱おうと思います。

聖句は以下になります。

マタイによる福音書18章21〜22節

21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

七たびまでとは言わない。七たびを七十倍する、、、。

つまりは490回、、、。多すぎん!?どんなに聖人君主であろうともそんなには許せん笑。

そう思いませんか?

果たしてイエスの言うようにそんなに人のことを赦せるのでしょうか。

仏の顔も3度までと言う諺があるように、大体の場合私たちが一言を許せるのは3回程度ではないでしょうか?

例えば友人と遊ぶ約束をして待ち合わせをすることを考えてください。

いざ待ち合わせ場所について、友人を待っているとその友人からドタキャンをされます。

冬の寒い中待っていたかもしれないですし、夏の炎天下の中待っていたかもしれません。

それなのにドタキャン。

1度や2度ならまぁいいでしょうが、それを490回まで許せと言うのですから現実的ではありません。

つまりこれは七たびを七十倍と表現してはいるものの、無限の赦しとも言えるわけです。

この聖書箇所は聖書の大きなテーマの一つ、罪と赦しについて語られています。

この聖書箇所を読んだ時、皆さんは自然と自分が赦す側に立って話を聞かなかったでしょうか?

少なくとも私はそうでした。

私たちは人にされたことは覚えているのに、自分のことは棚に上げて自分が侵した罪については、いとも簡単に忘れてしまうなんとも身勝手な生き物なのです。

そしてこれこそが私たちが犯している傲慢さと言うなの罪と言ってもいいでしょう。

今日の聖書箇所はこのように続きます。

王が僕に貸した1タラントンを返してもらおうとします。

しかし、僕は返却することができず、王に持っているものを全て売って返済するようにと命じます。

それに対して僕はどうか許して欲しいと哀願して許してもらい、借金をチャラにしてもらうのです。

1タラントンとは大体20年分くらいの賃金ですので、相当な大金です。

しかし、この話はここで終わりません。

解放された僕は自分自身は赦してもらったのにも関わらず、お金を貸している仲間に会うと、その仲間を返済するまで牢屋に入れてしまったわけです。

当然、その話は王に伝わりその僕も牢屋に入れてしまいます。

私たちは人の罪には敏感なのに、どうしても自分の罪は見落としがちです。

それでも、私たちはどんな時でも神さまに赦されています。

私たちが常に神様に赦しをいただいていることを覚えて、人の罪にも寛大になる。

これはまさに横須賀学院の建学の精神である敬神愛人のではないでしょうか。

私たちの罪を赦してくれる神様を敬い、同じように仲間を赦して愛する。

言うは易く行うは難しではありますが、日々心に留めていきたいものです。

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