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『空白』極限状態の理性と本能 vol.261
悲しみと苦しみと悲壮感と無力感とさまざまなマイナスの感情が錯綜しながらも、そこに正しさや未来を求めてもがいていく人の様を描いた映画『空白』を見ました。
出演者全員の演技力がとてつもなく、つい見入ってしまい映画の世界に引き込まれてしまいます。
しかし、このような凄惨な事故からは目を背けたい。
だからこそ、適度な距離感を持って俯瞰して見ることができているのかもしれません。
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女子中学生の添田花音はスーパーで万引しようとしたところを店長の青柳直人に見つかり、追いかけられた末に車に轢かれて死んでしまう。娘に無関心だった花音の父・充は、せめて彼女の無実を証明しようと、事故に関わった人々を厳しく追及するうちに恐ろしいモンスターと化し、事態は思わぬ方向へと展開していく。
それぞれが互いに理解できない中で苦しむ
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この映画のすごいところは、一人の少女の死から始まる物語なのに、全員が同じ悲しみを持たないというところにあると感じました。
当然、若い命が失われてしまうという悲しい事故に対して悲しみは巻き起こりますが、それが当事者として怒りを感じていたり、なぜこんなことになってしまったのかと悲しみに暮れたり、自分の非を償えず苦しみに押し潰されてしまったり。
自分の生徒を理解してあげられなかったという後悔に囚われたりします。
それぞれが互いに理解はできないのですが、確かに苦しんでいてそれが相交わらないところにもどかしさも感じます。
自分の苦しみからどうやって解放されればよいのか。
どうすれば今の苦境から離れることができるのか。
互いが自分に必死だからこそ、互いに傷つけてしまっていることにも気づかない。
自己中心的になっていることにも気づかない。
正しい&正しくないの押し付け
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この映画では、理性と本能の中で本能を中心に描かれる場面が多いように感じました。
その中で、唯一理性的に動いているパートのおばちゃん。
いや、もしかしたら彼女も一番本能的に承認欲求を求めて慈善活動をしていたのかもしれません。
彼女が本当にそのような活動が善と思い、活動していたのかは定かではありませんが、しなければ、やらなければ、の義務感があったのも事実でしょう。
途中、正しさの押し売りをしてしまい、我に返るシーンがありますが本当の意味で前に進めてないのは、彼女なのかもしれません。
彼女の人への交渉は非常に自分勝手なもの。
良いものだから伝えていくという姿勢は伝わってきますが、相手の立場を全く持って考えていないものなのでした。
これは、自分が営業をするときには注意しなくてはならないところだと、俯瞰して見ることの意識が芽生えました。
事実は風化しても、感情は消えない
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事件の直後、テレビやラジオ、新聞とあらゆるメディアが事件について報道をくり返していました。
これも都会であればすぐにでも風化するはずだったでしょうが、田舎ではそんなことも行きません。
小さな事件で合っても、風化されずにすぐに噂となって広がり毎日のように話題が持ちきりになります。
そんな状況も登場人物の心を傷つけ続けたのでしょう。
しかし、事件から数か月経つと、そんなこともみな忘れはじめ、メディアでもめっきり見なくなります。
社会の関心がなくなったのです。
社会の関心からその事実が消えていっても、当事者の記憶にはいつまでも残り続けてしまいます。
最後の娘をなくした父の「みんな、どうやって折り合いつけているんだろうなぁ」という言葉には、そんなすべてが込められているような気がします。
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