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孤独についての一考察

※この文は筆者が夜3時に布団で眠れない中考えた内容になっています。そのため、しっかりとした考察がなされていません。便所の落書きと同じような感覚で見てくだされば幸いです。

コロナ禍において孤独について考えたことをまとめようと思う

人は孤独"になる"のか?

日常生活において、孤独になるという話を聞くことが多い。
妻が亡くなり孤独になった、孤独になるのがいやだ、など何かと孤独という状態を嘆き、マイナスに考えるということが多いように思える。

しかし、私は孤独"になる"という考えは間違えであると考えている。
人は孤独"になる"のではなく、人は孤独"である"のではないか?

まず、私の考えている孤独の定義は以下だ

孤独とは、人が誰かに理解されない状態をいう

私は孤独はただ一人になることではないと考えている。多くの人の中で関係を持っていても、その人がその関係の中で自分を理解をしてくれる人がいないと感じた場合に、孤独であると考える。

この定義を前提にすると、理解されるということが必要条件として存在することになる。

しかし、私たちが誰かに完全に理解されることは不可能であろう。

よく、あなたは私のことを何もわかっていない、などという言葉があるが、そもそも、人間は人のことを本当に理解することはできない、言葉や行動から類推し、状態を判断し、その人が何を考えているのかを考えるのである。

そのため、真の理解というものは少なくとも現時点でのコミュニケーションでは無理と言っても問題はないはずである。

そう考えると、人は他者に完全な理解はされていないということになる。

では、理解されているという感覚はなぜ起こるのだろうか?

私は理解というものは、閾値を超えるか超えないかの問題であると考えている。この人は私のことをわかってくれているということは、その人の心の中に存在する閾値を他者が言葉や行動などによって理解を示した際に超えたかどうかで判断しているのではないか。

そう考えると、閾値というには何かしらの値で判断されているはずであるが、それがなんなのかという話になってくる。
私はこれは、好き嫌いなどの嗜好ではないかと考えている。
多くの人間のコミュニケーションには必ず嗜好の話が関わってくる。
同じアニメが好き、同じ音楽が好き、考え方が似ている…などなど、様々な嗜好から人は合う合わないを判断すると考えられる。
そして、このような嗜好における閾値を超えるか超えないかがその人が私を理解し、通じ合っているかに直結するのではないか

ここまでの考え方でいくと、人間は孤独になるのではなく、常に孤独であり続けており、その状態を見えなくするために、理解しているのだというものをヒューリスティックな閾値で持って判断しあい、孤独を隠し、生きていることになる。

つまり、人は孤独になるのではなく、常に孤独であり、それを隠しているのにすぎないのではないか?

常に我々の隣には孤独が存在しているのである

昨今、孤独を感じる人が増えたのはなぜか

話は変わるが、昨今は孤独を感じる人が増えているという話がある。
これは多くの場合SNSのような弱いつながりが増え、現実世界のつながりが希薄になったためだと説明される。

本当にそうだろうか?

私は、SNSにより現実世界とのつながりがなくなっているというのは少し違和感がある。多くの人はSNSで繋がりを持っている人と現実で繋がりを持っていることも多いはずであるし、現実世界におけるコミュニケーションより便利なツールとして用いている人も多いはずである。
また、SNSでの繋がりは希薄とはいうが、ネット上でやりとりをしていると意外に現実よりも趣味の同じようなユーザが見つかるなどして、逆に交流の幅が広がることもある。

以上などの理由から、おそらく自分はSNSなどの繋がりなどが孤独などの大きな原因ではないと考えている。

では何が理由なのか?

私は以下のように考える。

昨今の孤独を感じる状況は情報過多の社会において、コンテンツが個別に、オーダーメイドに選択できるようになったことと、現実世界における人間関係が変化しないことの二者のズレが生み出した現実世界の関係性の希薄さが原因である。

昔、インターネットがここまで盛んでなかった時代は、そこまで多くの情報に触れることがなかった。そのため、多くの人間が現実の繋がりの中で得られる情報の好き嫌いを判断し、自分自身の嗜好を構築していた。

しかし、現在、インターネットで多くの情報が得られる情報社会においては現実の繋がりなど関係なく、自分の好きな情報を、詳細に選択することができ、嗜好を構築できるようになった。

それにより、多くの人間の嗜好のパラメータともいうべきものが、多くに増え、それが現実世界などにおける人間関係の中で合致することが少なくなるのではないかと私は考える。

先ほどの孤独の話でいくと、嗜好の同一性によって人間は理解されているかどうかを判断し、グループなどを感じるはずであった。
しかし、情報社会にあっては、その一人ひとりの嗜好の数は詳細化され膨大になり、それによって、誰かに理解されているという感覚が生じにくくなったのだ。

例えば、大学で出会った、A君とB君は音楽を好きだったとする。昔ならば、音楽の選択も限られた本や、人から聞くなどでしか得られず、そこまで音楽などの嗜好に差はでなかったのではないかと考えられる。
しかし、現在ならば、選択の幅はspotify、youtube、AppleMusicなどのアルゴリズムによる推薦の結果などの膨大なデータ処理から生まれるオーダーメイドのものとなり、追求したければ、限りなく追求できるものとなった。
そして、これらの音楽の選択はジャンルからアーティスト、曲に至るまで詳細化できるようになり、嗜好のパラメータが非常に増えたのである。

そうして、音楽が好きという共通の趣味を持つであろう二者は細分化された中でおいて、一部分はあっているが、それ以外は違うといったような状況が起きやすくなったのではなかろうか。

このような状況はおそらく、音楽などのコンテンツ以外にもニュースや、学術的なもの、政治的なものに至るまで、様々なものが昔以上に細分化され、一人ひとりの持っている嗜好の数も膨大なものになっているのだと考えられる。

つまり、現実世界の矮小なネットワークと、一人ひとりの認知している情報の量に釣り合いが取れなくなってしまったのである。

ここで、こう思うひともいるだろう、現実世界にそぐわないオーダーの情報量になってしまったのならば、そのオーダーを作り出したインターネットで交流をすれば、孤独の緩和ができるのではないか。

確かに、その論は正しい。しかし、それはあくまで全ての情報をインターネットの中で共有できる場合である。

多くの人々に情報が見られる秘匿性の低いSNSなどのインターネットツールの都合上、自分の個人情報を晒すということを完全に行っている人は少ない。そのため、一部の趣味が同じ、などという人とは交流を図ることができるが、自分のことを理解している閾値を超えられる人と出会うのは難しい。また、膨大なテキストの中で流れゆく自身の情報は、データ分析などを行えば嗜好の判断ができるかもしれないが、ヒューリスティックにその人がどのような人なのかを判断するのは難しい。
そのため、現状、ネット世界でも自分を理解してくれる他者と出会うのは難しくなっているのだ。

このように、自分を理解してくれるという閾値を超えるほど自分と類似している他者を見つけることが困難になった結果、孤独を感じるという状態が多くなったのではないかと私は考えている。

インターネット内のネットワークでもっと簡単に気楽に、自分と適合できる他者とグループを作れるようになればこのような状況は解消されるのであろうが、インターネットに個人情報を大量に晒すということはまだ難しい。

現実世界と仮想が、混じり合う時、このような情報過多による孤独は解消されるのだろうと思う。

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