【書評】『一億総ツッコミ時代(講談社)』 マキタスポーツ


自分では何もしていなくても、他人のことは評価したい。
そうすることで自分の価値を手軽に上げようとするわけです。


このことは、最近のSNSで顕著だと思います。
本文でも「インターネットの普及により〜」と述べられていました。

ぼくはYouTubeをやっているのですが、
実際に発信者側に立ってみて感じるものは大きいです。

たとえどんなにいい動画を流しても、
評価の欄には必ず「👎」があります。
そしてコメント欄には、
「もっと勉強してから発信してください。」とか「それは違います。」などという否定のコメントがあるものです。

あくまでもぼくの推測なのですが、
これらは人間の承認欲求が関係していると思います。

低評価を下す方々の心理はおそらく
「これだけ高評価が多いコンテンツだけど、俺はあんま好きじゃないから低評価。」
というような奇を衒うようなものでしょう。

それによって他者の関心を引き寄せて、自分を認めてもらいたいという
遠回しのちょっかい出しのようなことだと思います。

もちろん本当に良くないコンテンツだと思いバッドボタンを押している人もいるでしょうが、現代の「単なる多数派にはなりたくない」という心情の行き着く先なのでしょう。



好き嫌いを表明しましょう。その代わり、なぜ自分がそれを「好き」なのかよく考えてみることです。
〜中略〜
それがポスト現代的な思考の表明の仕方(マナー)だと思うのです。


この章では、自分の意見を棚に上げた「良い・悪い」という評価ではなく、自分の意見を存分に反映させた「好き・嫌い」というのをもっと言っていこうと主張していました。

このような主張は最近よく見かけます。
物事がより合理的に進む中での人間らしさの強調ということで、ぼくも賛同しています。

ただここではそこから一歩踏み込んだ見解が述べられていました。
好き嫌いをストレートに表明する代わりに、そのなぜを“考えよう”と。

以前読んだ東進ハイスクールの林先生の著書『林修の仕事言論(青春出版)』で
「自分のことは案外わかっていない。他人に聞いた方がわかる。」というような趣旨のことが書いてあったことを思い出しました。

これはつまり、自己分析の追求です。

この引用文も同様に、
自分の好き嫌いについて考えてみることでまた新たな発見があるかもしれない
ということでしょう。
また、大前提として“考える脳”を養うということもあるかもしれません。

ただ「現代的な思考の表明の仕方(マナー)」とも述べられているので、
この好き嫌いの追求は案外大事になってくるのかもしれません。



不倫もしてしまうのが人間だし、清廉性もあるのが人間だし、それ自体が矛盾してることなのです。
〜中略〜
人間は“矛盾を内包している”


以前からぼくは世の中に「絶対はない」と思っていました。
この引用文はそれの答え合わせのように感じます。

なぜ絶対が成立しないかと言うのは引用の通り、
社会を運営している根本の、人間という生き物が既に絶対ではないからです。

たしかに信念が強い人はいますし、あることを一貫している人もいますが、
『感情』というものがある限り、この“矛盾の内包”というのは成立し続けるのでしょう。



平成は丁寧な時代でした。
それゆえあらゆるサービスが向上し、均質化、平均化が進み過ぎた結果が今の時代です。


まずは、評価しつつも批判をし、それでいて端的にまとめているこの文章に
とても言葉としてのおもしろみを感じました。

近年では、引用文のように、性別に関することや身体に関することなど、
言うだけでも憚れることが多くあります。

たしかにそれらの制限で守られる存在はありますし、今までになかった問題を可視化できたのはいいことだと思います。
しかし、それによって社会が過保護になっているようにも思えます。
本書風に言えば、『ツッコミ過多』です。

例えば性別に関することで、色に関する事象があります。
古くから日本では、『男=青系 女=赤系』という配分がなされてきました。
トイレやランドセルなどはその代表です。

しかし最近ではこれらを見直して欲しいと訴える方々がいます。
たしかに、男女間の格差をなくせるかもしれません。
青が好きな女の子がイジメられる可能性を未然に防げるかもしれません。
ただ、これはあくまでも、イメージの話だと思うのです。

日本ではもう何十年もこの配色でやっているはずなので、
我々日本人には潜在的にこの配色が頭に入っています。
おそらく、青い標識の女子トイレがあったら間違えて入ってしまう男性が多いと思います。

つまり、簡単に見分けがつくように設計しているだけだということです。
男女間に分断をつくろうと画策してこの配色にしている人はほぼいないと思います。
にも関わらず、「男女間を平等にするために配色を変えろ」と言うのは、
的外れだと思います。

少し話が脱線しましたが、平成とはこのように、
良くも悪くも問題が可視化されすぎた時代だったのではないかと思います。

本文でも述べられていましたが、
皆がこのようにツッコミに回ってしまっているせいで、
ボケ、つまりパイオニアのような存在が足りないということでした。



まとめ

タイトルから多少分かるように、
本書は時代の流れをお笑いと絡めて考察していくというものでした。
最後の引用文はまさにそのものです。

時代の流れが変わるというのは、進化の証なので、
それに乗るというのは悪いことではありません。
しかし、現代のようなツッコミ過多の流れには、乗るのではなくボケとして逆らう、こういった状況判断能力が必要なのだと感じました。




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