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震災から10年…①

2011年3月11日から

今日が2021年3月11日なので10年経ちましたね。

僕は直接被災したり被害があった訳ではありません。

僕はその時、世田谷の馬事公苑というところでジャッジボックスを運んでいました。

馬場馬術競技にて審判が歩様の正確さを審査するために入る小屋みたいなものです。

そこの地点でジャッジボックスに入って座って審査することで点数が出ます。

地震が起きて、大きな揺れでしたが、無事にバイトを終えて、経堂駅から帰ろうと思ったら、人がたくさんいたんですね。

どうやら、電車が動いていないということに気が付き、そこから自宅まで歩いて帰ろうと思いました。

携帯、電波が繋がらないんですよね。おかんに相談というか、そういったこともろくにできなくて。

まず、うちは無事だったのかとても気になりました。

電車は動かない、電波は奪い合い、人がごった返している。

ただ事ではないと思いました。

急いで家に向かって歩くようにしました。

当時の小田急線は今のように地下ではなく路面か高架に線路があったので、それを見ながら、新宿方面に歩いていきました。

それで、代々木上原駅に着いた時。

「やっぱり一度家に電話しよう」

こうして、携帯ではなく、公衆電話の列に並びました。

並んでいるときにも何度か揺れたような感じはしました。

なにより、その時点でも電車が動いていなかったことに驚きました。

ようやく自分の番になって、おかんと話すことができました。

家は無事、おとんも無事。

今日は大学に泊めてもらうことはできないのか?と農大に戻るように促されました。

「俺、高校生だから駄目じゃないかな」と言うと。

「あんた今どんな状況かわかってんの?」と言われました。

確かに非常事態なのか?電車がこんなに動かないなんて…

ここから自宅までとここから農大まで戻ることを天秤にかけると、圧倒的に後者の方が距離が短いんです。

もし、ダメと言われたらその時考えようと再び経堂に向かい歩くことにしました。

また、何時間くらい経ったかわかりませんが、着いたのが22時過ぎだったかなと記憶しています。

逆によく戻ってきたなと歓迎されました。

普通に帰って行ったから帰れたのか心配してたんだと大学生たちに言われました。

最初はかくまってやる。もし、見つかって高校生はここにいてはだめだと言われたら、しっかり説明する。と言われ心強かったです。

そこで初めてテレビの映像を見た訳ですが、東北がとんでもないことになってるということを視覚で知りました。

その時はまだ、宮城の気仙沼が火の海になっている映像だったんですけど、どうしてそうなったのかわからないままでした。

地震は東北の方で起きたんだ。ということだけわかっていました。

その日はそのまま寝てしまいました。



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