東海道NOW&THEN 18 「興津」
由比から興津まで2里12町。約9km。
薩埵峠の展望台から下りの道を約3km、下りたところに興津川。そのたもとに「川越遺跡碑」。そして川を越えると興津宿まで約2km。展望台から2時間弱。
広重の絵は、興津川の渡しを描いている。川越えだ。馬と駕籠に乗っている客、どちらも相撲取りらしく、駕籠かきや馬子よりも一回り大きな体に描かれている。駕籠の中の力士は窮屈そう。絵の右には舟の白帆と松。その向こうは駿河湾。興津川の西岸からのアングルと思える。とすれば、左の山は薩埵峠の裾から続く山か。
現在、興津川の西岸、川越遺跡碑の向かいに立つと東海道線や国道1号線の鉄橋が邪魔をして海が見えない。海が見える所まで鉄橋をくぐって移動すると、カメラのフレームに山が入らない。ということで、右の1国の鉄橋で隠れた海を想像しつつ写真を見てくださいね。
興津川の「川越遺跡碑」のすぐ前に「牛頭観世音」。これまで馬頭観音はいくつも見てきたが、牛頭は初めて。牛頭天王なら知っている。京都八坂神社の祭神だ。でも牛頭観音は…、ここには由来書きがないのでわからない。すぐ近くに地元のご老人がいたので尋ねてみたら「詳しくは知らないが、死んだ牛の慰霊だと聞いたことがある」そうだ。どなたか牛頭観音について知っている方がいたら、ご教授ください。
興津の西木戸を出ると、ほどなく清見寺。今川義元の人質だった幼少時代の徳川家康ゆかりの寺。清水次郎長が建立した「咸臨丸乗組員殉難碑」があることでも知られる。西園寺公望晩年の別荘「坐漁荘」を過ぎると次の江尻宿はすぐ。
その江尻の少し手前に「細井の松原」がある。松原というが、今は申し訳程度に1本の小さな松を残しているだけ。2代将軍・徳川秀忠が主な街道の整備を命じ、ここに松が植えられた。その100年後、元禄時代の記録にはその数206本とある。だがこの松原も第二次大戦中、松根油が航空燃料に転用できるとして、すべて伐採・供出されたのだとか。もちろん、転用は失敗に終わっている。その伐採のとき、根を掘り出すと地中から数えきれないほど多くの人骨が出てきた。東海道で行き倒れになった人を弔ったものらしいが、あまりにも数が多く正確なところはわからない。それが「無縁さんの碑」。
無縁さんの碑から江尻の東木戸までは1kmもない。
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