雑記:1

個人的に、過去、今、未来という時制は存在しないと考えている。今、だけが永遠に存在しているだけだと。

まるであるかのように過去について考えるけれども、本当にそれはあるのだろうか。転んで怪我をした時の記憶は、あくまでも記憶でしかない。それがいかに正確に記述されていたとしてもそれはあったことにはならない。転んだ時、頭上を大きなハチが飛んでいき、そのハチがより大きな鳥に食べられたかもしれない。だけれども、それについて主観的には絶対に知り得ない。そういう意味で、過去は存在しない。

仮に、何もかもを記述することのできるペンがあったとする。しかし、この仮定は大きな矛盾を抱えている。何もかもを記述している自分自身を記述しなければならないからだ。記述している自分をさらに記述して、その記述をしている自分をまた記述しなければなくなる。その時点で、合わせ鏡のように無機質な永遠の中に閉じ込められてしまう。

永遠の今を永遠に記述しなければならなくなる。これは主客の問題で考えることはできない。これはある機構である。永遠の今は、この世界の持ちうるシステムである。それを捉えるために我々は記憶の一つ一つに時制を与えているだけなのだ。

だけれども、より不思議なのは今すらもないということである。今とは仮定した未来と過去の間に漂うだけのある感覚でしかない。今は、常に現れそれと同時に消滅する。ないことがある。あることがない。今とはそういうものなのだ。だから、厳密に言えば今もない。ならば何があるのだろうか。

あるのは、感覚である。感覚は言語によって支えられている。言語は距離を図るためにある。例えば、なんらかの二者があるとして、それらが目に入った瞬間にAとBと脳は判断する。それらを認識するときにどちらが先かという感覚が生じる。これが、時制である。Aの次にB、あるいはBの次にAのように。順番を認識することはすなわち時間を感じることである。この感覚を徹底的に広げたものが歴史である。歴史とは、言語の集積でしかない。

しかし、言語はあまりにも単純で不完全である。脳内のA、Bのように世の中は単純ではないが、まるでA、Bと数えるかのように我々は言語をそれらに割り振る。割り振るという行為が単に時制を生んでいるだけなのだ。

だから、過去も今も実は存在しない。そうなると未来もない。我々はただ、言語を使用しているだけである。それだけなのだ。

存在している今、は世界という機構が与えたあるヒントでしかない。我々はそのヒントをもとに言語を生み出したということである。永遠の今は、ただそれ自体としてあるだけで、捉えることはできない。言語によって仮置きしているだけであり、それ以上のことはあり得ない。今という対象物を仮定してただ、生きているのが我々である。我々の人生とはそういうものなのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?