やっぱり芸術に身を通わせたい

(なんだかうまくまとまらない話を、実力の及ぶ限りで書いてみました。)

先日、ある作品展に行ってきました。

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ルドルフ・シュタイナーの世界観をもとにした絵画芸術活動の作品展です。

同僚の先生や、かつての仲間たちが何人も出展していると聞き、横浜まで観に行ってきました◎

(わたしも一時期、こちらの世界へ入りかけたのですが、やっぱりパフォーミング・アートの方かな〜と方向転換した経緯があります。)

ちゃんと楽しめる(分かる)のかしら?と密かな心配かあったのですが、吉澤明子先生によるレクチャービューに参加させていただいて、思う存分、光と色の世界を楽しむことができました!

ジャンルは違えど、最近の自分の取り組みに通じると思うものも、一つ見つかりました。

それは、「植物観察」についての説明を受けていたときのこと。

観察したものを描くとき、実物や写真を見ずに、記憶だけを頼りにする。そうすると、どうしても描けないところがでてくるから、また翌日観察に出てそこをよく見てくる。それを繰り返していく。(中略)そうすると、普段はどうしようもなく絵が苦手なひとでも、自分でびっくりするくらいに上手に描けてしまうことがある。

というお話がありました。

(他にも植物観察の醍醐味はたくさん語られているのですが、あえてここだけにスポットをあてます。)

わたしも実際に、教員養成講座で「植物観察」を体験したことがあるのですが、その時にも

写真や実物を横に置きながらスケッチするよりも、観てきたものの記憶を頼りにする方が、より本質的なところまで描くことができる。

ということを教わりました。そして、そのことがやたらと心に残っていたんです。

単に形姿をかたどる以上に、そのものが醸し出す気配や「わたし」との関係性、未来や過去を予感させるプロセスまで刻み込めるということ。その事実に、どれだけわくわくしたことか!

そして今回、また成長した自分になってこの話を聞いてみると、これって、ストーリーテリングでお話を覚えていく(仕上げていく)プロセスに似ているかも?と思いました。


植物観察で絵を描くことも、昔話を語ることも、

記憶(像)を頼りに描写する

という点では同じ。きっと、同じフィールドを動かしているのだろうと思います。

そして、わたしが授業を通して子どもたちの中に養おうとしているものは、まさにこのフィールドのことではないかと。

自分だけに見えているものを、みんなにも分かるように表現していく術。これは誰にでも備わっていて、日常レベルで言えば「過去の出来事ことを話す」「アイデアを形にする」というように、日々当たり前に繰り出されているものだと思います。

ですが、こと学齢期の、特に低学年の子どもたちにおいては、やっと芽生えてきた力です。その術を使いこなしていけるように、そのフィールドと親しくなれるように導くのが、教師の役割なのかなという気がします。

芸術活動においては、より意識的にその力を使い、磨いていくことができます。物理的には知覚できない(けれど、確かにあると感じられる)もの微細にキャッチし、知覚可能な形(音や色や動き)にして表していく。教育に必要な回路が、芸術を通して開かれていく感じです。

そうか。だから、シュタイナー教育では、教師が芸術に親しんでおくことが推奨されているのかな〜。また一つ、学びが腑に落ちました。

サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡