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ファジアーノ岡山 全外国籍選手列伝 その① 2005~2013【2022年12月追記】

みなさんこんにちは。

最近ぼくのTwitterのTLで流行りの「◯◯(クラブ名)外国籍選手列伝」に乗っかってみました。でもどうせやるなら、とトップ・ネクス含めた歴代全選手やってみることにしました。簡単な「その年のファジアーノ岡山の振り返り」も補記してますので、最近ファジサポになった人や他サポさんは是非参考にしてみてください。

何番煎じになるかわかりませんが。よかったらご覧ください。


2005年

当時岡山県1部のリバーフリーキッカーズを母体に2003年に始動したファジアーノ岡山。前年に岡山県1部リーグを優勝。中国サッカーリーグとの入れ替え戦に勝利し、この年から中国サッカーリーグに戦いの場を移す。この年、「晴れの国おかやま国体」を控えていたこともあり、それに向けた県代表チームの強化を前提とした補強が見られた。
チームは最終的に中国サッカーリーグ2位となり地域リーグ決勝大会へ進出を果たしたが1次リーグ敗退に終わった。


梁圭史 [リャン・キュサ] (FW、北朝鮮、2005~2006)


岡山県出身の元北朝鮮代表選手。2003年にザスパ草津を退団後は実質的に引退状態だったが、岡山県サッカー協会からの要請を受け、ファジアーノへ加入。当時、岡山国体に向けた県代表チームの強化が急務とされていた事が背景にある。(この辺の背景は宇都宮徹壱氏の『股旅フットボール』に詳しい。)選手としてのスタイルは万能タイプのストライカー。高い打点でのヘッドが持ち味だった。現在では背番号9番をつける選手の伝統となった「鉄腕アトムチャント」の元祖はこの方
2006年に再び現役を引退してからトップチームのコーチ、ファジアーノ岡山ネクストの監督等を歴任し、現在はアカデミーのヘッドオブコーチングを担当している。U-12~U-18までの指導面のトップの役職みたいですね、ヘッドオブコーチングって。
【2022年12月追記】
2020年から再度トップチームのコーチを務めている。

ハヤシ・アンドレ・ソウザ (DF、ブラジル、2005~2006)

ファジアーノ岡山が中国リーグ所属時に在籍したDFということしか知らない←
2年間在籍してたけど少なくとも自分が見に行った試合には出てなかったからCBなのかSBなのかすらわからない…。てか、声に出して名前を読みたくなるよね、「ハヤシ・アンドレ・ソウザ」って。


2006年

県リーグから着々と実績を積み上げつつあったファジアーノだが、負債が経営を圧迫している状況だった。そんな状況のなか、ゴールドマンサックスでマネージングディレクターを勤めていた木村正明(現:Jリーグ専務理事)が社長が就任。ここからクラブの経営状況が好転することになる。
チームは中国リーグを初制覇。地決でも決勝ラウンドまで駒を進めたものの惜しくも3位に終わった。

ジェフェルソン (FW、ブラジル、2006~2007)

当時の「Jリーグを目指す物好きクラブ」では地域リーグ決勝大会(現在の全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)大会直前にJリーガーや反則外国人の補強を行う例が非常に多かった。2006年のファジアーノもそのトレンドに乗ったのか、J2で実績があったこの選手を補強した。その年の地決は突破できなかったものの、翌年に加入した喜山康平(当時はFWだった)とコンビを組んでからチームの得点力は大幅アップ。空中戦で無双するジェフェルソンとテクニックに優れた喜山のコンビの活躍もあり、2007年のファジアーノは中国サッカーリーグで14試合77得点という猛威を奮った。地決決勝ラウンドでは2ゴールを挙げJFL昇格に貢献したものの、そのまま退団。その後はなんやかんやで2013年くらいまで現役を続けたそうな。


【追記】ジェフェルソン・サントス (MF、ブラジル、2006)

フォロワーさんからのご指摘により追記。2006年にジェフェルソンと共に加入したものの在籍期間はごく僅か。公式サイトにもWikipediaにも記載されていない謎の選手。一応当時は既に追いかけていたけど存在知らなかった…。元サンパウロのMFだそうな。



2007年

この年はファジアーノにとっての転換期となった。監督としてかつて日本代表でもプレーした手塚聡氏が就任。しかし、チームのプロ化を進めたことから19名が退団。一方で多くの大卒選手の獲得やJリーガーの補強を行った。その中には現在もチームで活躍する喜山康平の姿もあった。
喜山や前述のジェフェルソンらの活躍もあり、中国リーグを圧倒的な強さで優勝。地決でも優勝を果たしJFL昇格を遂げた。


李彰剛 [リ・チャンガン] (GK、韓国、2007~2011)


愛知県出身の在日韓国人4世。加入当初は控えが多かったが、JFL時代の2008年後半からスタメンに定着。Jリーグ昇格した2009年では開幕スタメンとして出場。甲府戦・仙台戦とファインセーブを連発し、2試合連続スコアレスドローに大きく貢献した。当時のJ2で見ても明らかに戦力不足だったファジアーノのサポーター達に「あれ、ウチら案外J2でもやれるんじゃね?」と大きな勘違いをさせるきっかけとなった(なお、その年は最下位)。ミスから失点を招いたと思ったらその次の試合には神セーブ連発でチームを救うという、試合毎のプレーの安定性に大きな波があったが、地域リーグ時代からJ2加入初期まで長くファジアーノ岡山のゴールマウスを守ってくれた。

2008年

クラブとして初の全国リーグに挑んだシーズン。開幕から6連勝を飾るなど順調な滑り出しとなった。しかし、夏場にやや停滞したこともあって昇格は最終節のアウェイ富山戦まで持ち越しに。富山に1-1と引き分けたことで昇格条件である4位以内が確定。翌年からのJ2昇格が決まった。

金廣閔 [キム・グァンミン] (DF、韓国、2008~2009)

J2昇格に向けた補強として、「北京五輪代表候補」の肩書きを引っ提げてJFL時代のファジアーノに加入。レギュラーに定着したのは2009年開幕戦から。当時J2最下位に苦戦していたファジアーノを対人の強さで救ってくれた。しかし、その年の水戸戦での接触プレーにより左眼底と左上顎を骨折する大怪我に見舞われる。年内に復帰出来たものの、プレーを取り戻すことは出来ずそのまま退団。「あの怪我がなかったら…」と惜しむ声は今でもある。
愛称は「ミナ」。由来は不明。なんで「ミナ」だったんだろう。


2009年

夢にまで見たJリーグの舞台。開幕のホーム2連戦はどちらもスコアレスドローと順調な滑り出しを見せたかに思えたが、初勝利は4/29のホーム福岡戦までお預けに。結果的にJ2最下位でシーズンを終えることとなった。また、これまで指揮を執っていた手塚監督はこのシーズンいっぱいで勇退。翌年からはマカオやシンガポールの年代別代表で指揮を執った経験のある影山雅永氏が率いることとなった。
この年からセカンドチームであるファジアーノ岡山ネクスト(公式略称:ネクスファジ)が活動開始。岡山県1部からスタートし、中国リーグへの昇格を果たす。


※この年に新加入した外国籍選手:なし

チームがJ2の高い壁に苦しめられていた頃、補強面でもなかなか苦しめられていたとのこと。特に、当時は専用練習場がなく県内の施設を転々とし、夏場はビニールプールでシャワーを浴びざるを得ない環境が忌避されたと言われている。


2010年

影山体制1年目となったこの年、J1クラブ在籍ながら出場機会に恵まれなかった選手を積極的に獲得した。全体的に若い選手が多いこともあったかなかなか結果には結び付かず、最終的には17位でシーズンを終えた。しかし、J2での2シーズン目として着実な積み上げを実感できたシーズンでもあった。
この年の夏より、専用練習場の整備を求めた署名活動が始まった。

キム・テヨン (MF、韓国、2010)

高校時代にはフランスのFCメスの在籍歴もあるボランチ。加入時点で神戸、愛媛、水戸でJ出場歴を重ねていた。プレースタイルはいわゆる「潰し屋」。182cmとボランチとしては比較的長身であるため中盤での競り合いも強く、中盤の底でのボールの捌きも上手かった。
チームへの貢献度も高かったものの、2011年に当時は喜山康平(当時はボランチとしての起用が多かった)と共に東京ヴェルディへレンタル移籍。その後は韓国や中国、熊本等を経て現在はタイでプレーしている。日本でのプレー歴が長いこともあり、とても流暢な日本語を話せる。


ファビオ岡 (MF、ブラジル、2010~2012)

ブラジル生まれの広島育ち。ファジアーノ岡山のスポンサーでもある学芸館高校から加入。地元高校出身かつ父親かつてコリンチャンスでのプレー歴がある選手だったこともあり、期待されていたもののネクスが主戦場となった。彼の特筆すべきは現役引退後。インターネットメディアの収益を最大化させるコンサルタント業務を提供する会社(公式サイトより)を起業すると共にYouTuberとして自慢の愛車を見せびらかす活動などを行っている。「Youは何しに日本へ?」にも出たよ!


李東明 [リ・ドンミョン] (FW、韓国、2010)

2010シーズンに途中加入したFW。「李東明」と書いて「リ・ドンミョン」と読むそうな。一般的に「李」という名字は韓国では「イ」北朝鮮では「リ」と発音する(なので韓国籍だけど北朝鮮系の大学出身の李彰剛は「リ」と読む)そうなのだが彼は韓国の人。なぜなんだろう。
182cmと長身だが高さを生かしたプレーより機動力と運動量で一緒に組んだFWをサポートするプレーが得意。球際にも強かったことから、相手DFにプレスをかけるファーストDFとしての貢献も高かった。翌年には大分トリニータに移籍。特性を活かすためなのかCBとしてコンバートされた。ちなみに大分での登録名は「イ・ドンミョン」だった。結局なんだったんだ「リ・ドンミョン」って。

2011年

サッカー面での大きな変化があったのがこの年。後述のストヤノフの加入をきっかけに3-6-1フォーメーションを取り入れたことからチームの守備力が大幅にアップ。順位もこれまでから大きく躍進し最終的に13位に終わった。
前年から行った練習場整備に向けた署名活動は、最終的に約28万筆の署名を集めることとなった。これを受け、岡山市は東区の岡東浄化センター近くに整備することを決定した。


ストヤノフ (DF、ブルガリア、2011)


「えっ?あのストヤノフ?同姓同名の別人じゃないの?」と加入発表時ファジサポの誰もが目を疑った超大物外国人選手。リリースまで全く何の噂もなかった(某スポーツ紙では仙台移籍という報道がなされていた)ことから「強化部によるステルス補強」と一部で評された。千葉・広島で数々の実績を残しただけではなく、ブルガリア代表としてEURO 04やワールドカップ予選にも出場した。CBながら積極的な攻撃参加に定評があり、FKやPKなどセットプレーのキッカーとしても超優秀だった。シーズン終盤には竹田忠嗣(現:FC岐阜)などの台頭によりポジションを失い、そのまま退団することになった。しかし、彼を活かすために影山雅永監督(現:U-20日本代表監督)が導入した3-6-1フォーメーションはその後2018年までファジアーノ岡山の基本布陣として根付くことになった。そういう意味では近年のファジアーノ岡山の礎となった選手であると言える。
引退後はレストランオーナー&小学生年代のサッカースクールのコーチとして活躍。広島市内に「レストラン ストヤノフ」というそのまんまの名前のレストランをオープン。現在は山口県に引っ越し、周南市で「OCEM」というレストランを営んでいる。


チアゴ(FW、ブラジル、2011~2012)

J2昇格後、最下位→17位と2年続いてJ2の壁に阻まれてきたファジアーノの起爆剤として加入。その期待に応え、2011年前半に得点を量産。当時サカダイのJ2上半期ベストイレブンに選ばれるほどの大活躍を見せた。192cmと長身ながら足元の技術も高かった。しかし、選手としてはキャリア後半に差し掛かっていたこともあってか肉離れによる離脱が非常に多く、実質的な稼働率は高くなかった。
明るくフレンドリーな性格で子どもからの人気が非常に高く、 試合終盤に『痛んだふり』でピッチに倒れ込んでいるシーンでは心配した子ども達の「チーアーゴ!チーアーゴ!」コールがメインスタンドから自然に巻き起こることも多かった。



金民均 [キム・ミンキュン] (MF・FW、韓国、2011~2012 2013.7~12)

練習生としての帯同を経て2011年4月に加入。当初はボランチでの起用が多かったが、シャドーで起用されるようになってから本領を発揮。持ち前のキープ力と高いパスセンスからアシストやゴールを産み出した。
2013年にはポーランド1部リーグのヤギエロニア・ビャウィシュトクに移籍。しかし、ヤギエロニア・ビャウィシュトクでは定位置を掴めず、半年でヤギエロニア・ビャウィシュトクを退団。8月からファジアーノへ復帰することとなったものの、今度は兵役の絡みでその年いっぱいで退団することになった。イケメンかつチームへの貢献度も高かったことから現在でも復帰を熱望する声は多い。
【2022年12月追記】
ファジ退団後は蔚山現代へ移籍。その後いくつかの移籍や兵役を経て現在は韓国3部の大田コレイルでプレー。


2012年

開幕から4戦勝ちなしとスタートダッシュに失敗したものの、徐々に順位を上げる。躍進のきっかけはこの年レンタルで加入した川又堅碁。開幕当初怪我で離脱していたものの、復帰してからはゴールラッシュ。プレーオフまであと一歩の8位にまで躍進し、エース川又はJ2得点ランキング2位となった。
この年、ファジアーノ岡山ネクストは中国リーグ2位に終わったものの、全国社会人サッカー選手権大会で3位に入ったことから地域リーグ決勝大会へ進出。地決でも決勝ラウンドまで進出を果たしたが最下位に終わった。


アンデルソン (FW、ブラジル、2012)

アルビレックス新潟からレンタル移籍で加入したFW。この年は同じく新潟から若手選手のレンタルがあり、同じタイミングで2人のFWがレンタル移籍で加入したことになる。得点不足に苦しんだファジアーノの救世主になるかと大きな期待を集めたものの、怪我の影響で出場はわずか1試合。それも途中出場。皮肉なことに、その年にエースとして君臨したのは同じ時期に新潟から加入した若手選手、川又堅碁であった。



呉 大陸 [ゴ・ダイム] (FW・MF・DF、韓国、2012~2015)


JFAアカデミーから加入した、在日韓国人4世。主にサイドの位置を主戦場とした。持ち味はドリブル。とにかく相手DFの突破が大好きなドリブラーで、ボールを持った際のファーストチョイスはドリブル。JFAアカデミーで培われたテクニックを駆使してゴリゴリと突破を見せてくれた。サイドから抉って突破するまではいいものの、シュートまで持ち込みきれず仕方なく後ろに下げる場面が割と多かったのは珠に傷。身体能力や運動量も高かったので最終的にCBで起用されることもあった。退団後はJ3の秋田や相模原でプレーした。

2013年

ガンバ大阪とヴィッセル神戸というビッグクラブが何故か降格してきたこのシーズン。ファジアーノは開幕から11戦無敗とスタートダッシュに大成功。しかし6月から大きく失速。最終的に13位に終わった。
この年の4月、念願の専用練習場である「政田サッカー場」が完成。ジプシー状態でJリーグ最低レベルの環境が一気に改善されることになった。
また、ファジアーノ岡山ネクストは中国リーグを初制覇。地決でも決勝ラウンド2位という結果を残し、翌年からのJFL昇格を遂げた。
この年、岡山市出身のタレントである桃瀬美咲氏がファジアーノ岡山特命PR部女子マネージャーに就任。今では多くのJリーグクラブで見られるようになった「女子マネ」の先鞭をつけることになった。


李載冠 [イ・ジェガン] (MF、韓国、2013)

韓国の年代別代表での実績を引っ提げ韓国の高麗大学から2013年に加入。加入内定リリースの際はその名前から、「我が軍にモビルスーツが配備されたぞ!」「第二次ネオジオン抗争から30年くらい活躍してくれそうな名前だな」と一部の期待を集めたものの、6月には退団。秘密兵器は秘密兵器のまま終わってしまった。ちなみにジェガンといえば大型MSだがこちらのジェガンは174cmとやや小型。


ピアカイ・ヘンケル(FW、アメリカ、2013~2014)


2013年夏に「パリサンジェルマンユース出身でアメリカU-18代表の10番」という華々しい経歴と共に加入。その年のホーム富山戦でベンチ入りは果たしたもののトップでの出場はなし。翌年はネクス登録となったものの、怪我の影響もありそちらでもあまり出場機会を得られず、そのまま退団。







さて、「その①」ではチーム創設期から2013シーズンまで振り返ってみました。
次回「その②」では影山ファジ最終年の2014シーズンから今年まで一気に振り返りたいと思います。
お楽しみに!

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