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月光

海底を掻き回して青緑色になった海は波と波とがぶつかり壊れこの小さな舟を呑み込もうとしていた。
舟に積まれたブラウン管テレビは女の笑う顔と口もとを繰り返し再生している。
おれと兄は何もかもが波にさらわれてもテレビだけは覆い被さるようにして守った。

「これはな、ただのテレビじゃない。母さんの位置がわかる方位磁石のようなものだ。」
おれはまたかと言って部屋を野良犬みたいにうろつき唾を吐きあんたそれは病気だよと吐き捨てた。
兄は聞いちゃいない。おれの話など一度たりとも聞いたことがない。
会ったこともない母親、おれたちのことを棄てた母親のことで脳みその大部分は侵されていた。時に恨み、愛し、殺したいと願い、やはり愛した。
そんな兄の側から離れられないおれも母親のにおいを兄の皮膚から言葉から嗅ぎ取っていたのかもしれない。

嵐が去っておれは耳の中に入った水。幻覚かもしれないが。それを取ろうと必死になっていた。
兄はひたすらテレビを見つめていた。
教会が映り綺麗な服を着た少年たちが映ったとおもえば戦争の様子が映し出された。
「そうか、母さんとぼくたちは戦争によって引き裂かれたんだ……。」
おれは冷たいナイフを奴の後頭部に刺しこんでやろうとさえ思った。
戦争にまで救いを求めるのか。グズめ。お前はグズだよ。
結局母のことをひとつも語らなかった、写真すら焼き捨てた叔父。おれたちを唯一愛してくれたあのひとすら殺した戦争さえお前の中では救いなのか。グズめ。
殺してやろうとさえ思った。食うものも食わず水すらない。完全に遭難だ。
でも、テレビは死守しなければいけない。
なんとしても母親に会わないといけなかった。

母親の夢を観る時いつも直近で見たニュースキャスターや雑誌の広告についていた女が母親のふりをしておれをあやした。
夢の中ではわからない。喜んで尻尾を振って泣いて腹を見せて許した。
起きれば最悪の気分だった。
叔父は大人しく優しいひとだった。
そして自らの姉であるおれたちの母親のことを嫌っていた。おれたちを棄てたことが許せなかったみたいだった。
叔父は善きひとで、困っている人のために買ったばかりの車まであげてしまうこともあった。
その叔父が戦争に取られて無理やり人殺しをさせられた挙句自分で死んでしまった。
棺の中の叔父の顔は布で包まれていた。
冷たい日だった。

テレビが狂ったようにザッピングを始める。
真っ赤な唇、涎を垂らした犬、ドラム缶に火をくべる乞食、汚れた人形を抱いた女。
おれは恐れた。そしてうつくしいと思った。
母親に死が迫っていると直感した。
冷たい殺し屋がコヨーテのように喉笛を鳴らしながらショットグラスで火酒を飲むタイミングで赤子をさらう心持ちで花を美しいと感じるこころであの女を殺そうしている!
兄も同じようにそれを感じ取り焦っていた。指で数字を数えながら必死に進路を取っていた

子供の頃は叔父に連れられてよく教会へ行った。
おれと兄は花のように可愛がられた。
祈りの意味も知らずその残酷さも知らず必死に祈り願っていた。
やがて願いが通じないとわかると兄は教会へ行かなくなった。それでもおれは通い続けた。
あの静かな教会でずっと死の匂いを感じ取っていた。考え続けた。自分の命が消えること、忘れ去られること、知らないひとに悼まれること、そのみじめなこと……。

やがて夜になり鉛の月が星を砕きながら顔を出した。おれたちは準備していた。もう街明かりは見えていた。
冷たいナイフのぬらぬらした輝き。長身の銃の堅い殺しの気配。
ここへ来なければおれは何になっていただろう。誰かを愛し、子供を作り、僅かな金を遺して死ぬ運命か。それもよかった。それでもよかった。
だがおれたちはもう覚悟した夜盗のような目つき。
「母さんを殺そうとしているやつを殺す。」
兄は銃の手入れをしながらそう言った。
死んでも生き延びても碌なことにならないことはわかっている。
テレビは腹の中の胎児を映した。胎児は少年に、少年は青年になった。教会のシンボルが映し出されたと思うと青年が老婦人を殺した。
見つめていると兄がテレビの電源を切った。
「もうすぐだ。」
雨が降り出した。海面に弾ける針の雨。
「……お前、まだ教会に通っているか?」
「いや、もうとっくにやめたよ。」
「そうか、ならいい。」
砂浜に近づくと舟を捨てて上陸した。
濡れた砂を踏み締める。
おれはポケットに隠した十字架のペンダントの感触を確かめながら走り出した。




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