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VACANCY

10月ですね。2020年も残り3ヶ月を切りました。最近時間が経つのが早すぎてヤバいです(語彙力)。扨、すっかりトレンディではなくなってしまいましたが、芦田愛菜さんの言葉がとっても心に刺さったのでそれを少し書きたいなと思います。題名は気分です。
その言葉というのは先月3日に行われた彼女が主演を務める映画『星の子』の完成イベントにて述べられたものです。「信じること」について問われた際に、緻密で繊細に言葉ひとつひとつを紡いだ彼女の持論が多くの人の共感を得ました。その内容を書き起こしたものが以下です。(東洋経済オンライン様の記事内より拝借)

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど、でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

言葉に対する理解、話の組み立て方、そして自身の主張がしっかりとなされているこれを台本なしに言えてしまうあたり、彼女がどれだけ言語のインプットとアウトプットを繰り返してきたか、想像に難くないです。大して年齢も変わらないのに、こんなしょうもない生産性もないnoteを書いている自分が恥ずかしくなってきます。まあ比べること自体が烏滸がましいのでしょうけど。とにかくこの高度に言語化された文章に感銘を受けたのは僕だけではない筈。少し感想を綴りたいなと思いまして。

「信じること」に対しての応答で持論を展開した彼女ですが、恋愛や友人等の人間関係といった、より広範囲に適用できるのではないかと考えます。((人間関係の記事書きすぎでは)) 人を信じるときのみならず、私たちは対人関係において、相手にそうでいて欲しいという理想を押し付け、現実とのギャップに勝手に失望している節があるのではないのでしょうか。こう書くと、自分はそんなことないと思う人もいるかもしれません。もう少し敷衍した表現に置き換えてみます。“この人は私の親友でなんでも話せる”と自分の中で思っている人がいるとしましょう。するとそれは“自分のことをこんなに話しているのだから”という前提条件が付され、相手にも自分に対してはオープンであり、親友同士であることを求めます。そうでなければ損した気持ちになってしまい、自分はこんなに話したのに君はそうじゃない、といった不満が生まれてしまってもなんら不思議はありません。これが自分がそうであって欲しいと言う押し付けになってしまうのではないでしょうか。
……。わかりにくい。いい例が思いつかなかった。

なんでも話せる人っていいですよね。その存在だけでとても救われる。精神的支えになる。その支えは家族、恋人、親友、はたまたインターネット上の相手かもしれません。支え自体が何者であるかはどうだっていいですし、無論その支えは多ければ多いほど良いと思います。自分との反りや考え方、価値観をある程度近い感覚で持っている人、若しくは全く逆であるがお互いに尊重し会える人のどちらかがそういった存在になり得る可能性が高めだと個人的に思っています。そしてそう言う人は中々いません。

僕自身、そういった存在は今までいたことがありませんでした。人との距離感を取ることが得意でした。仲良くしてもらってる人は沢山居ます。でもちょっとベクトルが違うと思います。胸を張って親友と呼べる人もいなければ(思ってくれてる人がいたらごめんなさい)、恋人もいません。前者に関しては自分がそう思うのは相手にとって迷惑かもしれないし烏滸がましいと感じるという自己肯定感が変に低いのが災いしています。自分でわかっているのならば改善したいのですが難しい。まあ欠陥ですね。うん。後者は触れてはいけない。
てことで以上、芦田愛菜ちゃんの話を聞いて感じたことでした!

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