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自己紹介⑤ 上京物語

兄が都内の大学に通っていたため、一緒に住むことになった。2LDKの賃貸マンションで始まった東京での生活は、わくわく半分、寂しさ半分。

横浜にある音楽の専門学校へは電車で通った。ドラム科専攻だったので当然ドラムの授業がメインだけど、ラテンパーカッションも一通り学んだ。副科でピアノや作曲、編曲、音楽理論やアンサンブルなどもあり、どうしても音楽を学びたかった私にとっては夢のような日々、となるはずだった。
ドラムの先生は数人いたけど、その中でもひときわ別格な厳しさを兼ね備えた先生が私の最初の師匠となるお方だ。オーディションの時に「一番下のレベルね」と言われ、「春までにライブやってきてね」と無理難題を課せられ、、ちゃんと約束果たしてきました!とは結局最後まで言えず終いだったけど、あの時の経験は間違いなく今の私を作り上げている。

好きな音楽を学ぶということに関してはもちろん、これ以上ない環境だったけど、なんていうのかな、学校全体の雰囲気がね、私の肌には合わなかった。入学当初、自分の演奏レベルの低さと知識のなさに、授業に付いていくのに必死だったので、毎回その日に習ったことや、先生が言った言葉の一言一句を家に帰ってからノートに書き留め、個人練習した内容や思ったことなども全部書き出しながら、ひとつひとつ階段を昇るように腕を磨いていった。全国各地から集まった同級生とも初めの頃は仲良くやっていたんだけど、各楽器の先生方はいわゆるプロの音楽家。「業界人」としてのプライドを持った先生方が多く、学校内は常にピリついた雰囲気が漂っていた。

演奏技術がそれなりに高い生徒は、先生たちに気に入られ学校にも馴染んでいくが、それ以外の生徒に対してはまず目を合わせてくれない。挨拶しても返してくれない。とにかく無視されるのだ。もしかして意図的にそういう雰囲気を出して、音楽業界とはこういう世界なんだというのを教えてくれていたのかもしれないけど、それまで名古屋で楽しい日々を送ってきた私にとっては、とんでもなく違和感を覚え、また、だんだんその雰囲気に飲まれていく同級生たちを目の当たりにしていくにつれて、私の居場所はここじゃないと学校へ行くのが苦痛になっていってしまった。

そんな中でも、一番厳しかったドラムの先生は厳しいけど気さくで、無視されるような事はなかったし、時々あった飲み会では「今まで意地悪してごめんね」と言われたりした。この先生のレッスンだけは2年間、なんとか最後まで受け続けた。厳しさの中にも人間味あふれる優しさがあり、話を聞いているだけで、なぜだか涙が溢れてしまった経験は一度や二度ではない。一度だけどうしても学校の中へ入るのが嫌で、学校の前を通り過ぎてそのまま帰ってきてしまったことがあったけど、その先生の授業を休んだのはその1回だけだったと思う。1人2人と学校に来なくなる人が増えていき、最終的に同級生は半分残ったかどうかという状況の中で、私はその先生にドラムを習うためだけに意地で学校に通い続けたといっても過言ではない。他の授業はほとんど休みがちで、卒業できるかどうかさえ不安になり、卒業間近になって学校に「わたし卒業できますか?」と問い合わせたほどだった。

在学中に、兄との生活にも問題が生じた。彼女を連れ込むようになったのだ。そういうお年頃なので致し方ない部分はあるのだろうが、妹の立場も考えて欲しい。いろいろと不満を母親にぶつけ、兄との同居生活はわずか1年半で終わりを告げ、学校に近い横浜市内で初めての一人暮らしを始めることとなる。

一人暮らしは気楽ではあったが、頼れる人がいないという不安はあった。一度深夜にバイトから帰ったら、手のひらサイズの真っ黒な巨大肉厚蜘蛛が、二匹つがいで出てきて非常に困った経験をした。何時間かかけて掃除機で吸い込んだという思い出は、人生の中でも強烈なインパクトとして残っている。

憧れていた音楽学校でのドラムの勉強は、つらく苦しい思い出として刻まれてしまったが、2年間必死に食らいついて練習をしてきたことで、卒業する頃にはみんなと同じくらいのレベルに並んだような気がしている。学校に馴染めなかった私は、外でバンドを組むことを積極的にやっていて、当時はスマホなどまだなく、音楽雑誌の「バンド仲間募集」の記事や、ライブハウスなどに貼ってある貼り紙などを見て自分からどんどん連絡をとってバンドをいくつも掛け持ちしていた。上京前に自分でメンバーを集めてライブをやった経験がここでもいかされた。なぜか聖飢魔IIのコピーバンドや、グリーンデイのコピーバンドやジュディマリのコピーバンドなどなど、なんでもやった。そのうちオリジナル曲を作るバンドもやり、誰かのコピーではなく自分で好きなように演奏する事の面白さを知った。

日本の音楽業界の雰囲気の悪さにすっかり失望をしてしまったのだが、こんなはずはないと、音楽人はこんな人たちばかりではないはずだと。日本から世界へと思いを馳せるようになったのはまだ在学中、2年目の夏のことであった。


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