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きっかけは父のDNA

私が事業を始めようと思ったきっかけをざっくりというと、コロナによって一変した文化芸術の世界に、何か少しでもお役に立てることをしたかったのと、私の中の父のDNAがうずうずとうずき出したからだ。私の父は、自ら立ち上げた建設会社の代表として晩年まで働いてきた。跡を継ぐ者が誰もいなかったので、病気で亡くなる1年程前にその会社は解散したのだが、なんだか毎日楽しそうに働いていた父の姿を、今になってやたらと思い出す。


父は普段、仕事仕事であまり家にいなかった。平日はほぼ顔を合わせることはなく、会社が休みの日曜日だけは、なんか家にいたなという記憶しかない。私は三人きょうだいの年の離れた末っ子で、物心ついた頃には上の姉や兄はもう大きかったので、家族でどこかにお出かけしたという思い出はお墓参りくらいであとは記憶にほとんど残っていない。父との思い出といえば、まだ幼い頃に父と二人で手をつないで近所のスーパーへ買い物に行ったこととか、日曜日に朝寝坊をすると具沢山のインスタントラーメンを作って食べさせてくれたことなど、そんなごく日常の生活風景だ。でも特別な思い出なんてなくても、たとえ毎日顔を合わせなくても、そんなちょっとした思い出がひとつやふたつあれば愛情は十分に伝わるし、愛されていたなという記憶はずっと残る。あとは子どもの中で適当に折り合いをつけていくもので、厳格で仕事一筋だった父のことで寂しい思いをしたことはまったくない。でもそれは私が女の子で上に頼れる姉や兄がいたからであって、もしかしたら姉や兄は父に対してまた違った思いを抱えていたのかもしれない。

バブルがはじけ、会社の経営もうまくまわらなくなってきた頃、母とお金の面でいろいろ話をしていたのも見ていた。従業員も減っていき、今思うと相当苦労をしていたんだろうと思うけど、私たちきょうだいは三人ともそれぞれ好きな道を歩ませてくれた。英語が好きだった姉は高校卒業後にオーストラリアへ留学し、今もオーストラリアで暮らしながらバイリンガルの子供を3人育てている。スポーツが好きだった兄は東京の大学を出た後地元に戻り、今は高校教師として体育を教えている。私はといえば、幼い頃から音楽が好きで、私立の女子高を出た後、横浜の音楽専門学校へ2年間、極め付けはアメリカへ音楽留学と、家計が大変な中でどれだけの学費や下宿代を支払ってくれていたのだろうかと思うと、今こうして音楽から離れてのらりくらりと扶養範囲内のお給料をパートで稼いる自分をふと「なんかおかしいよな」と思ってしまうのだ。中学生と小学生の息子を抱え、家から徒歩5分の職場でパートをしている自分はけっして嫌いではない。仕事は面白いし、たくさん勉強させてもらえるけど、父も母もなにも言わなかったけど、私が音楽で活躍することを少しは期待してくれていたんじゃないかと思うと、今のままじゃいけないよなと思うのは当たり前の感覚だろう。

事業を始めることに関してはもしかしたら他の人よりも安易に考えているところがあるのかもしれない。父がやりたいと思ったことを実現したように、私もやればいいだけだよねなんて。父はもういないけど、やりたいという衝動の半分は父親譲りであるということは確かなんだろう。
どんな業種を選ぼうともきっと始めることは出来る。問題はどうやって長く続けるか、どうやって成長させていくかということを考え続けていくことの方が難しいのだろう。そこで「営業力」が非常に重要となるような気がしている。ずっと音楽をやってきた私が音楽以外の業種を選ぶ必要はまったくない。仲間はいる、知識も経験も少しはある。音楽をやっている側の気持ちも分かるし、音楽から離れたからこそ見えたこともある。コロナによって圧倒的な打撃をうけた文化芸術の業界に、少しは貢献したいなとふつふつと湧き上がった衝動に、今こそ素直に従ってみようと思う。

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