見出し画像

やさしい世界(マシュマロを投げ合おう)


質問箱、マシュマロ、ラブレターに褒めて箱…
私の知らない間に、twitterの中には、たくさんの匿名のメッセージサービスがあるみたいだ。

そもそもどうして匿名で話をするのか理解できないし、なんとなく好きじゃなかったので、好きでフォローしている人がそういったサービスを使っていた時も一度も投稿したことがないし、自分がするなんて鳥肌が立つと思ってやってこなかったけれど、ちょっと冒険がしたくなって開いてみたマシュマロは、私が思っていたものとは少し違っていて、要はお互いの使い方次第なのだな…と思っている。



そういった匿名サービスの良いところは、普段恥ずかしくて話しかけられないでいる見えない誰かと会話できるところだ。

SNSなんてそもそも匿名性の高いものだし、私のtwitterの中の人だって、妙齢の働く独身女性のふりをしたおじさんかもしれないし、大人に憧れてごっこ遊びをしている中学生女子かもしれない。
アカウントのプロフィールや文章から感じる雰囲気からだけでは、現実世界のその人の、本当の姿を把握することは難しい。


だけど、私のいるKpop界隈ではどうだろう。他の趣味アカでも同じことが言えるのだろうけど、匿名のようで匿名ではない。
仲良くなった人たちとは現実世界でもお付き合いがあるし、自由に見える世界にもうっすらとグループのようなものがあるのではないだろうか…
例えばAちゃんと仲良くしている“私”は、実はしおさんのnoteが好きだけど、パリピのAちゃんにあんなポエムみたいなnote読んでるのバレたらめっちゃ恥ずかしいし、だからリストに入れてこっそり読んでる…みたいなこともあるだろう。
そうしたしがらみにより、一生話すことのなかった私たちは、匿名サービスを通して言葉を交わすことに成功したのだ。

別に誰と仲良くしたって誰も責めないし、自分以外の誰かが誰にどんなリプライを送っているのか、実際はお互い、それほど気にしてはいないのだけれど、なんとなく話しかけたことのない、よく知っている誰かに話しかけるのは勇気がいる。
そんな時、それは想いを伝える格好のツールになる。


そして暇つぶしの映画や本を教えてもらう場所としてもいいかもしれない。
例えば誰かに教えてもらったら、それは誰かとの思い出になる。“〇〇ちゃんの好きな曲”という先入観をもって、初めてその曲を聴くことは、それはそれですてきな事だけれど、どこの誰だか知らない人(実際はよく知ってる誰かかもしれない)におすすめされたものは、フラットな気持ちで触れられる気軽さがある。
〇〇ちゃんのおすすめは放置し辛いけれど、知らない人のおすすめは、ポイっと放置したってどこにも角が立たないじゃないか。



ではなぜ、私はマシュマロが嫌いだったのだろう?
世の中の一定数の人が、どうして、何アレ?と疑問に思うのだろう……

やってみて一番思った事は、返信をする度にTLに個人的な会話が流れてしまうのは問題なのかもしれない。私は勝手な判断で、TLに流したいものとtos(ツイートと返信欄にしか上がらないやり方)でツイートを分けたのだけれど、もらった私がどれだけうれしくても、関係のない人たちから見れば「〇〇さん好きです!」みたいな投稿で埋まるTLはきっと面白くないだろう。
知らない人同士の愛の会話は、“私こんなに人気者なんです!こんなに褒めてもらったの!さぁみんな!人気者の私を見て♡♡♡”と自己顕示欲を振り回している承認欲求の塊にしか見えない。
誰かのさみしい叫びを、よしよしと受け止めてあげるほどこの世界は暇ではないし、優しくないのだ。

私も実際そう思っていた。こんなの、褒められたい人やかまって欲しがる、さみしい人がやるものだと。
だいたい質問箱を開いた所で、質問をくれる人がいなければ成り立たない。“自分は質問をもらう側”だという意識を持った人気者だけがやるもの…だとも思っていた。

めちゃくちゃ斜め目線だ。


私はいくつか、送ってもらえた悩みにアドバイスめいた事をしたけれど、それだって斜めに見ればとても滑稽だ。私は全然偉くないし、毎日小さな事でイライラして、思い通りにいかない出来事に折り合いをつけながら、アイドルに癒されているだけのちっぽけな人間だ。
だけど、友達に話しをすると、答えが出なくてもすっきりするのと似ていて、知らない人に悩みを投げたり、それに対しての意見を聞いたりすることは、少し心が軽くなるのではないかと思う。
名前も顔も知らない誰かの悩みは、TLでそれを見かけた、また別の誰かの乗り越えてきた道なのかもしれなくて、知らない人が自分と同じようなことや思いもよらないことを考えていると知るのは、少し新しくておもしろい。



最近とても思うことがある。
目にしたり聞いたりしただけの誰かの意見や行動に疑問を抱く時、何かを否定的に思う時、問題は相手にあるのではなく、自分自身にあるのだと…。

私自身もまた、時々そうしてしまうけれど、
新しいものを恐れるのはどうしてだろう?
乗っかってみて、合わなければやめる。それで終わりなのに、いちいち屁理屈をこねて、それっぽい意見を振りかざすのはどうしてだろう?

それは自分が恐れているものや、自信の持てない部分を認めてしまうのが怖いからではないだろうか。
どうせ私なんかがマシュマロを開いても、投げてくれる人なんかいないし、誰も褒めてくれないかもしれないという不安に蓋をして、その恐れを抱かない人への“羨ましさ”を認めない為に、“承認欲求を満たす為だけのうざいツール”だという言葉で片付けてしまうのではないか。自己肯定感の低いフリをしている人は、時々、素直な人や自分をしっかりと持っている人が気にくわないから、あれこれと言いがかりをつけてくるけれど、それにとても似ている。


先入観や、経験からものごとを決めつけて、自分と違う意見を受け入れることの出来ない人は、とても人生を損していると思う。
他者と違う自分に自信がないから、かわいい自分が傷つかない為に、他人を見下し、否定し、正義を語る。
正義なんて不確かなものはないのに、それにしがみついて、正しさを説く。
そうしてガチガチに固めた自分の世界の中で、私が一番正しくて、私が一番真理を理解しているかのように利口なフリをする。


はたして、、何も考えず「何か楽しそうだなぁ」と質問箱やマシュマロを開く側の人と、それを見下す否定的な人たちと、いったいどちらが承認欲求の塊なのだろうか…?

“何かを悪いと云うのはとっても難しい”と歌う曲があるけれど、正解を決めつけるのはとっても難しい。



楽しそうならやればいい。面倒なら受け流せばいい。
屁理屈を捏ね回す前に、新しいことに飛び込んでしまえる方が、きっと人生は楽しい。


さて、
私が斜めの目線で開いたマシュマロには、フィルターを外していたにも関わらず、アンチコメントは来なかった。それは私がみんなから好かれている人気者だからとかいうことでは決してない。私に嫌いな人がいるように、この世界には確実に私を嫌いな人もいる。けれどお互い干渉せずに暮らせたらそれはとても良いことだ。

そして“彼氏が長い間できない”と話してくれた人の話しを私の投稿で見つけて、その人に伝えてと、kemioのエッセイを教えてくれた人がいた。
この世界は複雑で、自分勝手で、面倒くさいけれど、一方で、マシュマロのようにふわふわとした優しい世界なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?