それをそれとして捉えられないのはボールが転がっていくのが我慢できないから。

こんばんは。イデオロギーコオロギーです。
僕が今この文章を書いているのは2022/03/05 04:13です。
ふと思いついて書いてみます。

前回はダラダラと、文化を優劣、まして平等なんて物差しで測るなという僕の怒りを率直に書きました。
前回の文章で最後に書いたこと、覚えていただけてるでしょうか。
覚えていなくて当然です。なんの権威もない浪人生の言うことですからね。

何を書いたかと説明しますと、文化を優劣とか平等とかの物差しで図らずにそれがそれとしてのみ存在しているんだ、と理解することが難しいな、とか簡単ではないな、とかそうすることに違和感を感じたなら、それはまさに現代の記号化・定元化の弊害だ、ということでした。

誤解を恐れずに言えば現代の人間はあらゆる物事に対して名前をつけておいたり、それとは逆に名前のあるものに対して印象や偏見を持っておかないと上手く認識・把握できないということです。前者の例としては新種の昆虫が見つかるとすぐに名前がつけられることが挙げられると思います。後者の例としてはウクライナのゼレンスキー大統領に戦争で戦っている元芸人の大統領だという印象がついたことが挙げられると思います。

まずは前者の記号化(煩雑な内容を端的に表すこと)について少し触れてみたいと思います。

僕たち人間が身の回りのほぼ全ての物に対してそれがどういうものであるか簡潔に表す名前をつけて管理・把握しているということについては今説明した通りです。
名前をつけることは本当に便利だしこればかりはなくてはならないものです。これがなかったら人間同士でコミュニケーションが取れなくなってしまいますし、何を隠そう僕自身なんでもかんでも名前をつけることが大好きで様々な抽象的な考え方にふざけて名前をつけることが多々あります。なんならこのなんでもかんでも名前をつけようとする風潮に名前をつけましょうか。
とすると「名状管理化主義」あたりにしておきしょう。
名前をつけるということは、ドロドロとした液体状のものを瓶に詰めてラベルを貼って扱いやすくするようなものです。
ここまで批判的に話を展開してきましたが、名前をつけ続けること(名状管理化主義)に関する問題点はこの文章の後半で説明しようと思います。

次は後者の定元化(物事の評価が一定の種類に限定されること)についてです。

私たちは今150年ほど法治国家、すなわち憲法・法律が善悪を規定する世界で生きています。法律が支配する世界、そこには善か悪か、どちらかしかないわけです。全ての出来事が2択で裁かれるわけです。
ですが私たちの行動が完全な善、あるいは悪であることなんて極めて少ないでしょう。
相手のことを思って行動したらかえって相手を傷つけてしまった、なんていう問題を善か悪かの2択で裁くのは極めて難しいでしょう。

でも現代の人は合理化を求めすぎるあまり判断を蔑ろにし、本来精査されるべき問題に触れすらしていないように思います。
そしてある物をただそれとして、名前や印象もなく把握する能力を失っていっていると感じています。

抽象的すぎるので具体的な例を考えてみます。
袋の中からボールを取り出してそれを赤・青・黄のトレイに分ける作業が現代では行われているとします。赤・青・黄のボールばかりが取り出されているうちは何も問題は起こらないでしょう。
ですがもし取り出されたボールの右半分が青で左半分が緑だったら、現代の人達はどうするでしょうか。
彼らは右側をこちら側に向けてボールの青色の部分のみを見て、左側の緑色を見なかったことにしてそのボールを青色のトレイに入れるでしょう。

本当に偉そうなことを言いますが僕はそんな人達ばかりになってほしくありません。少なくともこのnoteを読んでくださってる皆さんには絶対になってほしくない。
言い換えると僕はみなさんに青と緑のボールをトレイのない平らな場所に置いておくことに違和感を感じないようになってほしいと思います。
もちろんボールはトレイにいれておかなければどこかへ転がっていってしまうだろうし、もし次に赤と緑のボールが袋から出てきてしまって仕方なくそれもトレイの外に置いたら、2つのボールが混ざってしまうかもしれません。それでもそれをトレイに入れたくなるのを我慢することが大事だと思います。

そして今説明したようなボールを放置しておく忍耐力に加えて更にもうひとつ忍耐力が必要になると考えています。
それは新たにトレイを作ることに対する忍耐力です。
重要なのはボールが不安定な状態にあってもそれをそのままにしておくことであるのに、既存のトレイに入れなかったとしても新たなトレイを作って入れてしまっては本末転倒ですし、ボールを放置する忍耐力、すなわち「本質的に考える力」を構成する重要な一要素を妨害してしまいます。
これが上で説明した、新たな物事や人物に名前をつけること(名状管理化主義)に関する問題点です。

それに、前回も書いたように多様化した文化の渦巻く現代では個人がそれぞれの個性を確立しているためそれら一つ一つに対応するトレイを作って個性一つ一つを区別しようとするのは結局いたちごっこになり、終わりも意義もない営みになってしまいます。

長々と書いてきましたが結論は、それをそれとして捉えられないのはボールが転がっていくのが我慢できないからで、我慢ができなければ文化の多様性にも取り残され、表面的にしか物事を考えることもできなくなってしまうということです。

なんでもかんでも理論的に考えたり言語化しようとするとそれはアートを見ていてもアートじゃなくなってしまうと思うというのはまたいつか。

今回は前回以上に長くなってしまった上に面白くもない文章ですいませんでした。ですが今回の文章は是非皆さんに読んでいただきたい内容です。内容がとって有用であるか下らないものであるかは皆さん次第ですが…
ちなみに書き終わったのは 同日 05:44 でした。

読んでいただき、本当にありがとうございました。



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