見出し画像

疎外感と当事者意識(2022/06/29水)

こんにちは。
最近は時間がなくてフリー素材をそのまんま記事のサムネイルに設定することが増えている。色々画像を弄って遊びたいんだけどな…忙しくて困る。

Twitterを見ていると、「あなたの感想やエールが、絵描きが活動を続けるかどうかを大きく左右します。だからみんな遠慮せずじゃんじゃんエールを送ってね」みたいな、積極的な「ファン活動」を推奨する言説が話題になっているのをしばしば見かける。

大体の場合、こういう言説の要点は「『自分以外の誰かがやってくれるから自分はやらなくていいや』という怠慢な姿勢を全員がとってしまうと…?」というもの。

要するに「誰も消防車を呼んでいないのである…!」というヤツだ。誰かが消防車を呼ばなきゃいけないのだから、自分以外に消防車を呼ぼうとする人が誰もいなくても良いように、当事者意識を忘れてはいけないということ。

これは最もな話だ。
「あなたが行動を起こそうが起こすまいが状況はほぼ変わらないが、たくさんの人が行動を起こせば(あるいは起こさなければ)状況は大きく変わる」という事物は世の中にたくさんある。

さっき例にあげた「ファン活動」も一つの例だが、極端に言えば社会のあらゆる活動がこれにあたるような気がする。案外この社会は、みんなが焼け石に水をかけて熱を冷ましてくれる前提で成り立っているのかもしれない。

私はこの言説を理解しているし、賛同もしている。だからといって、何にでも当事者意識をきちんと持っているかと聞かれれば、残念ながらそうでも無い。

世の中の全員が当事者意識を失ったら大変なことになると理解している一方で、世の中の全員が当事者意識を失うことなどそうそう起こり得ないという楽観が心のどこかに根付いてしまっているのだ。

そもそも、私には自分自身が「大衆」の一部であるという自覚が足りていない。社会の潮流についていけていないという疎外感からか、自分を「大衆」から一歩引いた立場にある「例外」として見てしまっている。そして、それゆえか、私は自分が社会に与える影響を小さく見積もっている節がある。
これも、ある意味で当事者意識の欠如と言えるのかもしれない。

きっとこうした生き方はあまり良くないのだろう。

ただ、私が一歩引いた立場で当事者意識を欠かしてしまうのは、社会という大きなレベルでの話だ。もう少しスケールの小さい場面でならある程度当事者意識を持っているつもりでいる。

電車の中で誰かに座席を譲るだとか道端で前を歩く人が落とした物を拾うだとか、そういう場面では、「率先して」とまでは言えないとしても、必要だと感じたならば行動に移すようにしている自負がある。(とはいえ座席を譲るのは面倒なので、電車ではそもそも座らないことの方が多いが。)

しかしこれは単なる自負でしかない。
本当に大切なのは、先程軽く言及した火事のような緊急事態において、本当に当事者意識を持って行動できるのかどうかだと思う。

状況のスケールの大小は様々あれど、当事者意識を持っているにこしたことはない。これだけは肝に命じておかなければ。

終わり

美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ