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思うだけならタダなんだけどな(2022/07/10日)

「口は災いのもと」とはよく言ったものだが、「思うだけならタダ」だとも思うんだよな。

今は数十年前と比べれば人権や平等についての意識が高くなっていて、古臭い差別的な思想を迂闊に発信してしまえば、もれなく非難されてしまうような世の中になっている。
それにともなって、どんな人間を相手にしようとも偏見を持たずに分け隔てなく接することこそが美徳とされるようになったと感じる。

もしかしたら、自分の中に芽生えた偏見を自覚して「自分はなんて心の狭い人間なんだ」と自己嫌悪に陥る人もいるのかもしれないが、しかし果たしてそこまで気に病む必要はあるだろうか。

私は、「思うだけならタダ」と書いた通り、どんなに不道徳な考えだろうと、それを表に出さない限りは非難に値しないと考えている。

ときに「感情をコントロールするのが大切」なんて言説も頻繁に耳にするが、真に感情を制御することなんてできっこない。程度は人それぞれあるにせよ、誰しも侮辱されれば腹は立つし、嫌いなものは嫌いだ。それを捻じ曲げようとするのは不健全だとすら私は思う。
我々にできるのは、頭の中に湧いてきた感情を不用意に表出しないように押さえ込むことだけなのだ。

すなわち、大事なのは、自分の考え方は理不尽なのではないかと疑う心を常に持って、自分の中に芽生えた偏見や差別をいち早く検知して心の中に押し留めて置くことだと思う。どんなに邪悪な意思が眠っていたとしても、それを言葉や行動に移さなければ全くもって無害だ。

たしかに、邪な気持ちを微塵も抱かないような無垢な心が実現するのならそれに越したことはないが、邪な気持ちに気づいて自力でそれを抑え込むことができるのは同じくらい素晴らしい心だと思う。

そもそも、それほどに無垢な人間はごく一握りの特別な存在でしかないのだから、自分がそれに成れないことを気に病む必要は無い。もちろん、そうなろうと努力することもそうありたいと願うことも決して無意味ではないけれど。

ちょうど1ヶ月ほど前の記事でも似たようなことを書いたが、私は「悪人も好きで悪人をしているわけじゃない」と考えている。
すなわち「悪の道に走る人間は、生まれ持った資質(これは、例えばシリアルキラーのような、生まれつきの邪悪な欲求なども含む)や環境の被害者なのであって、少なくとも同情の余地はあるのではないか」と考えているのだ。

差別的な言動によって顰蹙を買った人々に対しても、同じような見方ができる気がする。大体の場合、こういう風に炎上しているのは、前時代的な教育の影響を受けたままイデオロギーの変化に取り残されてしまった人々だ。すなわち、彼らもある意味で環境の被害者といえよう。
ゆえに、彼らが差別的な考え方を抱くこと自体は仕方のないことなのだと思う。まあ、だからといって差別的な考えを不用意に口にしてしまう思慮の浅さはどうしようもなく愚かだと思うけど。

要するに、「思うだけならタダ」なのだから自分がどんなに不道徳な考えを抱いたとしても気に病む必要は無いが、それを不用意に発信すれば他人も自分自身も傷つけることになるから気をつけろ、ということ。

ちょっとややこしい話になってしまった。
一歩間違えば社会正義に反する考え方をしていると誤解されそうな内容なので、正しく自分の意図が伝わる文章を書けたかどうか少し不安だ。
私も自分の発言に気をつけなきゃな…。

終わり


美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ