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斜に構えた言葉(2022/06/30木)

こんにちは。

今日もサムネイルがフリー素材だ。せめて自分で撮った写真とかにしたいんだけど、あまり遠出をしないため写真を撮る機会もない。(近場で撮った写真はトラブルが怖くて掲載できない)

連日の暑さで参ってしまっている。
疲れやすくて早く眠れるなら生活習慣が改善できて良いのでは?みたいなことを考えていたが、今日は疲れすぎて夕方に寝てしまった。結局早寝早起きはできなそう。

上の文章を書いていたら、「できなそう」か「できなさそう」のどっちが正しいんだろうとふと気になった。
調べてみたら、「できなそう」が正しいとされることが多いみたい。

一説によると、形容詞としての「ない」に「~そう」「~すぎる」をつける場合は「なさそう」「なさすぎる」で、助動詞としての「~ない」につける場合は「~なそう」「~なすぎる」とするんだとか。へえー。

言葉の使い方って悩ましい。

世の中には反対の意味を両立してしまっている言葉が結構あるように思う。
大抵の場合、それは言葉の誤用があまりに広まったために新しい意味として定着してしまっている(定着しつつある)というもので、「(会議が)煮詰まる」だとか「穿った見方」だとか「斜に構える」みたいなものがそれにあたる。

「煮詰まる」とは、本来「結論を出せる段階に近づく」ことを意味する慣用句だが、多くの場合「新しい意見なども出ず、会議がうまく進まない」ことを指して使われている。
「穿った見方」は、本来ならば「物事の本質を的確に捉えた見方」のことだが、現在は「ひねくれた見方」を指すことが多い。
「斜に構える」も「改まった態度で臨む」という意味よりも「ひねくれた態度をとる」という意味で使われることのほうが多い。

「募金」や「課金」なんかも、本来ならば「お金を”募”る」「支払いを”課”す」側を主体として使われるべき言葉だが、今ではお金を支払う側の行為としても使われるようになっている。

私は、可能な限り本来の用途で言葉を使いたいと思っている。
言葉は変化するものだし、新しい方の用法を「誤用」と一蹴するのは保守的すぎるとは思うが、本来の意味を知っているのにわざわざ「誤用」を続けるのもおかしな話だと思うからだ。

かといって、事実として「誤用」の方が本来の意味よりも広く知られている以上、本来の意味を意識してこれらの言葉を使ってしまうと、聞き手や読み手を不必要に混乱させてしまうおそれもあるのではないか?とも思ってしまう。

こんなことを考えたって得られるものは無いわけだし、言葉なんてもっと適当に使ってしまえば良いような気はするけど、気になるものは気になるんだよな。どうしても。

終わり

美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ