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リプライなんてしないほうが良い(2022/07/07木)

Twitterを見ていたら、特定の種類のリプライに対し苦言を呈するような発言を目にした。

その「特定の種類のリプライ」は、誹謗中傷や暴言のような明確な悪意ではなかったが、それでも「この場でそういうことを言っていたら不快に思う人がいてもおかしくないよな」と感じられるような物だった。
いわゆる「悪ノリ」だ。

こういう風に「悪ノリ」が咎められている様を見ると、色々と考えさせられてしまう。
TPOをわきまえず「悪ノリ」を展開した側に非があるのはどう考えたって間違いないのだが、はたして彼らが責められている様を他人事だと思って笑っていて良いのだろうか。

私には、こういう状況がどうにも対岸の火事には思えないのだ。

これはインターネットだけでなく現実でも言えることだが、あらゆる「ノリ」というものは、それを面白いと思わない人間にとってはかえってつまらないものであるし、行き過ぎれば不快なものになり得るものだ。
すなわち、この件で咎められている「悪ノリ」も、当の本人たちにとっては楽しい「ノリ」でしかなかったはずなのだ。

要するに、「ノリ」と「悪ノリ」に本質的な違いはなく、結局それを見た人が面白いと感じるかうざったいと感じるかという主観の問題なのだ。

とすれば、私たちが面白いと思っている「ノリ」も第三者から見れば「悪ノリ」なのかもしれない。「自分は空気の読めない悪ノリで誰かを不快にさせたりはしない」と自信を持っていられる人などいるはずがないのではないか。

こういう考え方をこじらせたせいか、私はTwitterやその他SNS等において、情報収集のためにどうしても必要な場合を除き、他人にリプライで話しかけるようなことは避ける癖がある。

面白半分に話しかけたら「悪ノリ」だと思われてウザがられるかもしれない、だからといって堅苦しく話しかけても浮いてしまうかもしれない。
気にし過ぎなのだろうとは思うが、「相手がどう思うか次第」という前提で物事を考えてしまうと、どうしてもこういう考えが頭によぎってしまうのだ。

相手を不快にさせたくないのなら、空気の読めない「悪ノリ」を繰り広げたくないのなら、リプライなんてしない方が良い。(もちろん、気のおけない友人たちと仲間内でやりとりするならば話は別だけど。)

裏を返せば、インターネットでいろいろな人と関わり合って生きていきたいのならば、相手を不快にさせてしまうことも「悪ノリ」として冷ややかな目で見られることも、「多少は仕方ない」と開き直ってしまえるだけのふてぶてしさが必要だ。

慎重さとふてぶてしさがシーソーに乗ってせめぎあっている状態が一番健全なんだろうな。私の場合は慎重側に傾いてしまっているから、もう少しふてぶてしくなった方が生きやすいんだろうとは思うけど。

終わり

美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ