駅裏8号倉庫とはなんだったのか。飯塚優子インタビュー(再掲)

1981年9月、札幌にオープンし1986年4月に活動を終結した札幌のフリースペース「駅裏8号倉庫」。札幌駅の北側にあった倉庫を改装して運営され、5年間でなくなったそのスペースは、その時代を生きた人々のあいだでは今でも伝説のように口に登ります。

省略して「駅8(えきはち)」と呼ばれるその空間はどのような場所だったのか。2005年当時は記録がほとんど見つけられず、それならばとその空間の運営委員だった人に話を聞いてみようと行ったインタビューです。この回はレッドベリースタジオ代表の飯塚優子さんです。

※以下、2005年3月に行ったインタビュー記事を再掲したものです。

駅裏8号倉庫(以下 駅8)に関わったきっかけを教えてください

私はその頃4丁目プラザ(以下 4プラ)に勤めていたんです。ビル全体を運営管理する会社の企画宣伝部で働いていました。今も7階に自由市場ってあるでしょ。あそこの一角にイベントをする4プラホールというのがあるんですが、私はそこの担当だったんですよね。

あのフロアは元々食堂街だったんです。ところがそれがどうもうまくいかないということで、改めて現在mたいな自由市場がオープンしたばかりでした。だから多くの人の話題になったし若い人たちがたくさん集まる場所だった。今はJR札幌駅の方が盛んだけど当時は4丁目交差点が札幌の商業の中心でしたから。

そしたらね、そこで芝居をやりたいって人がいっぱい来たの。その当時私は芝居と関わりはなかったので、自分としては「こんなところで芝居なんかできるの?」ってかんじだったけどね。実際芝居をするといっても、空間自体は今とまったく一緒なので天井も低いし、周囲の売り場の音も入ってくる。逆に芝居で大声を出せば全部売り場に響く。そういうなんともいえない状況なわけです。それでもそこで芝居をしたいというグループがいくつも来たんです。そんなきっかけで私は札幌で演劇をやっている人達と知り合っていくわけですよ。駅8の代表だった劇団53荘の植田さんなんかも自由市場で芝居をやっていた関係で知り合ったしね。

でもあそこは不特定多数の人を集めて入場料取るのは興行場法や消防の規則に反するわけ。だからビルの管理部からいつもやめてくれって言われてました。鍔迫り合いしながらもなんとか2、3年やったんですけど、いよいよダメだという時に駅8の話が出たんですよ。で、じゃあもうわかったと。自由市場で演劇するのはナシ。その代わりそっちに私も仲間に入れて、っていうことで。

4プラでは仕事として演劇に関わってたわけですが、その時点で私自身演劇の面白さに入り込んでたんでしょうね。なので、演劇に関しては個人として知り合った人達と一緒に活動しよう、っていうふうになったんです。

運営委員の中で飯塚さんはどういった位置づけだったのでしょう

私は自分が演劇やってるわけじゃないし、表現する人間ではないから、ちょっと他のみんなと違っていたかもしれないですね。高いところに登って工事したりとかも出来ないし、そういうことでは全然役に立たないんですけどね。

ただ、当時はあまり意識してませんでしたがマネージメントなりプロデュースしていく立場、それから空間の運営とか、そういうことが自分の関心事だったんじゃないかと。こういう風にしたらお客さん来てくれるんじゃないかとか、どう宣伝しようかとかですね、当時は明確に意識はしてなかったんですけどもマネジメントをやっていたわけです。今私はアートマネジメントの仕事をしていますが、あの頃やっていたことは結局それと同じね、って今考えると思います。

駅8での活動で印象に残ってることは何ですか

みんな印象に残ってますけど、しいて言えば運営委員でのミーティングでしょうかね。みんなでワイワイ言いながら、だいたい落ち着きどころを見つけていくわけなんですが、そのプロセスがとても印象に残っています。

知恵の出し合いなわけですよ。こうやればいいんじゃないかとか、むしろこうだろうとか。発想の転換をいつもしながらやっていた、それが本当に財産なんですよね。今でも「この問題どうしよう。」「どっちへいったらいい?」とか悩む時にあの駅8の運営委員ミーティングの感じで話してみたらどうなるんだろうと思うことがよくあります。

それともう1つ。「空間を運営することにどんな要素が必要なのか」。これは駅8に関わらせてもらったおかげで大分つかめるんです。空間の維持・管理・必要最低限のこと・人へのアピール要素、そんなようなことを、あらゆる角度から検討していつもやっていたんですよ。今レッドベリースタジオを運営する上でも、それが随分役に立っていると思いますね。

なぜ駅裏8号倉庫はなくなってしまったんでしょうか?

元々は運営委員たちが自分たちでなにかに使うために借りた建物なんですが、結局自分達が使うだけでは家賃が払いきれないのね。ちなみに家賃は当時25万円だったんですが。電気代とか含めたら30万かかったの。月15日使われるとして1日2万円。劇団1つでは当時年2回公演がやっと。運営委員が全員なんかやったとしても月15日埋まらないので他の人に貸すことにするわけです。

そうなると人に貸す時は鍵を開けて設備の説明して、色々フォローして。イベントが終わったら全部点検して。そういった管理が必要だったの。

それが結構な労力なんですよ!みんな別の仕事してるしギャラなんてないし。それなのに夜遅くなったり朝早かったり色々するわけですよ。借りる人の中には壁にマヨネーズ塗ってベタベタにしていったり、壁にぼっこり穴開けていく人もいたりとか。そういうのを含めての管理を足かけ6年続けてきて「これ以上無理」って全員思ったんだと思うんですよ。

方法として誰か1人担当を作って、その人は食べていけるようにすれば不可能じゃなかった。だけどそうすると自分達のために作った場所という基本が少し崩れてくるわけです。出資者がいてその人が管理人を雇ってるニュアンスになる。そういう案も出てきはしましたが「それはつまんないね。」と。「それはやめよ。」とあっさりなりました。

おそらくみんな経営するっていう方向に向かおうとは思わなかった。「自分達の場所だから、そこでならなんでもできる。」ということが面白いんであって、経営して維持していくことが目的にはならないんですよね。

その後飯塚さんはどのようなことをしてきたんですか?

駅8が終わると同時に4プラをやめました。完全にフリーになってラジオの仕事したりしてましたね。その頃から札幌に本来の意味での劇場を作るっていう活動をはじめました。

「札幌市民会館(現在札幌市民ホールがある場所に建っていた施設。2007年閉館。)があり教育文化会館もあるのになんでそんな劇場がいるの?」という話になるんですが、演劇が発展していくには専用の施設がどうしても必要なんです。公共の施設は5日以上連続で借りられないんです。そういう規定があるんです。するとロングラン公演ができないわけね。せめて一週間か二週間公演できる芝居をすることができなければ、一定以上の予算をかけた芝居は作れないんです。

例えば歌舞伎やパリオペラ座も舞台装置から衣装から、もう100年も使ってるものもあるわけです。そうやって何度も上演することによってかけただけの予算の元もとれるし、俳優も育つ。そうやって作品が成長していくってことがあって演劇にはそれが不可欠なんです。ところが専用の小屋がない、全部貸し小屋なわけですから、そういうことができない。

当時はそんな議論が巻き起こった時代でした。演劇が一定規模レベルで発展していくためには必要だ。それをいっぱい資料作って色んな人のところに話をしにいったり啓蒙したりといった運動をしつつ、募金活動もしたりとか。そういう活動の事務局にずーっと関わっていくことになったんです。

その頃子どもが小さかったので演劇の現場には行けなかった。だけど事務局としての活動は続けていたので、そうやって演劇と繋がり続けていました。

その活動はどうなったのですか

途中から音楽の人達と合流したんです。中島公園にある札幌コンサートホールKitaraは演劇関係者と音楽関係者が一緒に作る活動をした結果作られたものなんです。

ところがKitaraはできたんですが、丁度その頃にバブルが崩壊しちゃったんです。当初の計画では「コンサートホール・劇場・能楽堂」という3点セットを順番に作るはずだったんですが、Kitaraを作った時点でお金なくなっちゃったんです。

じゃあ劇場は北海道が主導して作りましょう、ってなったの。音楽は札幌市で、演劇は北海道で。そういう話をしてたんですが、そうこうするうちにどんどん経済状況が悪くなって、これらのプランが全部凍結されちゃったんですよ。今では、もうホンッッッットこれっぽっちの希望もあるかないかくらいになっちゃっいましたね。場所はもう決まってるみたいなんですが。

そんな状況だったので先に財団法人を作ろうという話になりました。それが北海道演劇財団。北海道演劇財団は演劇の基本的なことを行っていくための財政的な基盤を作っていこうというものでした。人を養成するとか、東京から優れた演劇を持ってきたり、あるいはこっちから持っていくとか。

演劇財団は財団法人なんですが、今で言うところのNPOなんですよ。市民や企業から寄付を集めて、それを基本財産にして作った財団でした。つまり北海道演劇財団を作るというのも一種の市民運動だったんです。それをお役所に設立許可を取るための大量の書類書いたりとかを担当してました。

個人的に札幌は演劇が盛んな土地という印象があります

北海道は、石炭があったり鉄鋼があったり、第1次・第2次産業が基本なんですね。それを運ぶ鉄道もあるし。第二次世界大戦後そういう労働運動の一環として、道内各地ですごく演劇が盛んだった時代があったんです。

労働運動と結びついた演劇。思想的、政治的な芝居ですね。そういう土壌が厳然としてあるわけです。それに反発するカタチで起きたのがアングラ演劇であり、小劇場演劇なわけです。私が演劇と関わったのは、アングラ・小劇場以降ですけど。

駅8の頃と今とでは違いを感じますか?

今の若い人たちの芝居はほとんどが人間の心、人間関係のとても狭い世界を描くことが多いですね。もちろん演劇は突き詰めて言えば人と人との関係性を見せるものだから、それでいいんですけども。ただ人間がおかれている要素は人間だけではないし、空間だったり時代だったりもあるわけです。最近の芝居は人間を取り巻いているモノの捉え方がずいぶんと狭いと思います。

20年前っていうのは、多分時代の雰囲気なんでしょうけど、社会に対して何かできるってみんな思ってるわけです。政治的な意味での社会への働きかけだけじゃなくて、身の回りにある色々なモノに自分が手をだして何とかしよう、できるって思ってる。自由市場だって駅裏8号倉庫だって、もともとそういうことをするような場所じゃないのに「あそこで何かしよう」って自分の世界にしてしまう。そういう発想ですよね。当時は怖いモノ知らずだったよね。

今の人達あんまりガムシャラなことって発想しないんじゃないですかね。あの頃はガムシャラにありとあらゆる手を使って、なんとか達成してきたんだと思うんです。でも今はガムシャラだと達成できない社会なのかな。皆さんすごく「これは無理」とか「ココまでは行けるけどココから先はダメ」とか枠がはっきりとわかっていて、その中で動いている感じがしますね。

とはいえ私達もガムシャラとは言っても、色んな可能性を考えられるだけ考えて、問題点をなるべく潰して、すごく色んな人の力を借りて用意周到にやった部分もありますよ。闇雲に突き進んだだけじゃありません。

当時の怖いモノ知らずはどこから来ていたのでしょうか

駅8の熱気って昔から続いてきたものへの反発、「そうじゃないだろ!」みたいなね。学生運動の熱気もそこに余韻があるんです。ただ学生運動の時代からは少し離れているがために、やろうとしていることが演劇や映画に向かっていたんですよね。だから丁度面白かったんだろうな。政治へ向かわず表現にパワー、パッションを全部叩き込んだみたいな。

なぜ熱気はとぎれてしまったのでしょう

まず学生運動なりその時代への失望観が1つでしょうね。闇雲にやったってダメなものはダメっていう感覚があったんだと思うんです。突破口が見つけられないっていうか。

それから私たちの場合、決定的なのはみんな丁度生活に飲み込まれていったんですよ。運営委員をやっていた人たちは、それこそ団塊の世代ですからほとんどみんな30代だったんです。駅8って若者がやっていたわけではないんですね。結婚して子どももいる状況で駅8をやっていて「もう無理!」って言って一気にみんな生活のための仕事に突入していったわけですよ。

なんにせよ働かなければいけない年齢にさしかかっていたわけ。個人的な意味ではそういうこと。でもね、その私たち世代が、来年、再来年あたり、もうすぐ定年で解放されるわけですよね。これ、コワイかもしれませんよ(笑)

レッドベリースタジオはなぜ作ることになったのですか。

ここは元々祖父母が住んでいた場所で、古い家が建っていたんですけど老朽化もあって建てかえることになったんです。そのタイミングでこの場所を作ることになったんですよ。

私はいつかそういう空間を持つのが夢でしたから。小さくてもそういう空間があれば面白いことができるかもしれないね、と思って。

最近は演劇での利用が多いけど、それ以外も色々なことをやっているし、やりたいと思っています。例えばアートというものが個人の世界を表現するだけじゃなく、ツールとして使って社会に役立てていくことができるっていうことを随分勉強したんです。できあがった作品の完成度とか芸術性を問う世界もあるけど、それを作っていくプロセスで人間が色々な出会いをしたり、自己改革ができたり、新しいコミュニケーションの手段ができたりという、実に多彩で色んなことがそこで起きる。出来上がった作品だけでなく、そこまでのプロセスがアートだという考え方ですね。それは実に面白いことで、そういうことをもっとアーティスト自身がわかれば、作品作りも変わってくると思う。この場所はそういうことをたくさんできる場所であってもいいなと思っています。

「空間というのは一つの媒体だ」と駅8の頃に誰かが言っていたんでよね。空間があるということ自体が人を集め、出会うこともあれば、そこがあるからこそ産まれてくるものもる。空間というのはすごいものだね、ってことをみんなが言ってました。

それはこんな小さな空間でも思うんです。しばらくは自分の考えでやりたいので1人でやりますけども、小さくても空間があることは色んな人の考えがカタチとしていっぱい残っていくんです。ここを使ってくれた人達の発想がどんどん蓄積されていく。「次に何をやろうか」ということも漠然とですが、そういう中からでてくるんです。空間というのは面白いですよ(笑)


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