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プレテスト「世界史B」 全問解説④第4問ー井出進学塾のマンツーマン授業の実況中継(大学入学共通テスト「世界史」対策)

こんにちは、井出進学塾です。
共通テスト世界史対策として、今回は「プレテスト世界史」第4問をみていきます。

その他の問題の解説は、こちらからどうぞ。

共通テスト世界史対策「プレテスト世界史」くわしい分析と解説 まとめ

問題および解答は、大学入試センターで公開されておりますので、そちらを利用ください。

「大学入試センター 平成30年度試行調査 問題、正解等」は こちらをクリック

それでは、はじめましょう。

第4問A 問1

「20世紀前半」といわれて、どういう時代か?パッと出てくるようにしたいですね。

20世紀は1900年代のことで、前半というと数字でいえば1901年くらい~1950年くらいのことですが・・・

2つの世界大戦

そうなのです。

第一次世界大戦が1914年~1918年、第二次世界大戦が1939年~1945年なので、20世紀前半は、まさに、二つの世界大戦があった時期、ということができます。(ここらへんの年号は、さすがに覚えておかないといけない年号です。)

この設問でも、二つの世界大戦期の時代感と合わないものを選んで答えです。選択肢をみていきましょう。

①:スペイン内戦(1936~39)・・・まさに、第二次世界大戦の直前、世界的に緊張状態が高まってきた時期のできごとです。

スペインでは、1936年に人民戦線(じんみんせんせん)派の内閣が成立しましたが、それに対し、軍人のフランコ(1892~1975)が反乱をおこしました。

ソ連や世界各地から集まった国際義勇軍が人民戦線側を援助しましたが、ファシズム勢力であるナチス=ドイツイタリアが公然とフランコを援助し、戦いはフランコの勝利に終わりました。

第二次世界大戦につながる事件なので、この選択肢は消えます。

②:この選択肢が正解です。30年ほど前のことなので、わりと最近なので選びやすいでしょう。

・・・とはいえ、私からすると最近ですが、みなさんはまだ生まれていませんからね。もう少し補っておく必要があります。

1991年

「1991年」が、大きな年号です。意識しておくといいでしょう。

第二次世界大戦が1945年に終わり、通例、それ以降を「戦後」といいます。

戦後、いろいろな国際問題などもありましたが、それらに一区切(ひとくぎ)りついたのが、1991年ということができます。1991年以降、国際社会は新たな展開を迎えることになります。

多少、乱暴な説明ですが、だいたいのことは1991年におこったと思っていいです。さすがに乱暴すぎるかもしれませんが、「ソ連邦が解体」したのも、「湾岸戦争」が勃発したのも、「韓国と北朝鮮が国連に同時加入」したのも1991年です。(1991年は、私が高校生から大学生になった年ですが、当時はニュースから目が離せなかったです。)

戦後の中欧・東欧

(上図:第二次世界大戦後の中欧・東欧〔略図〕)

ユーゴスラヴィア連邦は、バルカン半島の北西部にありました。

第一次世界大戦中にドイツ、オーストリアなどの同盟国側に占領された地域です。第一次世界大戦後に、独立しました。

もともと、さまざまな民族で構成された国家であり、6つの国家で構成された連邦国家でした。

ユーゴスラヴィア内戦も1991年のできごとで、1991年6月に領内のクロアティアスロヴェニアの両共和国が独立宣言、つづいてマケドニアが独立を宣言し、さらに翌年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言しました。

これにより、ユーゴスラヴィア連邦は解体しました。

③:これが、一番消しにくい選択肢でしょう。
やはり時代感から、判断しましょう。

注目は「保守党と労働党が二大政党」という部分です。

イギリスは二大政党制ですが、もともとは保守党と自由党でした。
ここらへんを、ふり返ってみましょう。

イギリスの最盛期といえば、ヴィクトリア女王(位1837~1901)治下の19世紀(1800年代)です。この時代はヴィクトリア時代とも呼ばれ、産業革命で先駆(さきが)けたイギリスは「世界の工場」として繁栄の絶頂(ぜっちょう)にありました。

ヴィクトリア女王の在位年が、だいたい1900年までなので、おさえやすいですね。

保守党自由党という二大政党が、選挙の結果に基づいて交替して政権を担当するという、典型的な議会政党政治が成立したのも、この時期です。

「ヴィクトリア時代=保守党と自由党の二大政党時代」と、おさえてもよいでしょう。

イギリスで、労働党が成立したのは1906年ですが、のびてきたのは第一次世界大戦後です。自由党に替わって保守党に次(つ)ぐ第二党になりました。

イギリスとフランスは、大戦で受けた経済的打撃が大きく、その後、長いこと不況(ふきょう)に苦しみました。

第一次世界大戦の結果の一つとして、それまで世界の大国であったイギリスとフランスが停滞し、それに代わって、アメリカ、ソ連、日本が力を伸ばしてきた、・・・という要素が大きくあります。

そういう背景もあるので、この③の選択肢も、第一次世界大戦関連のできごとといえます。その意味で、この選択肢も消せます。

また、戦後の選挙権拡大(選挙法改正第4回:1918年、第5回:1928年〕)も、その背景としておさえておきましょう。これらの改正で、女性にも選挙権が与えられたということで、とても重要です。

実際のテストのときには、「あれ?イギリスの二大政党制で、労働党が自由党に変わったのは、20世紀前半でよかったっけ?」・・・ということから考え始め、・・・

「保守党と自由党の二大政党の時代はヴィクトリア時代で、ヴィクトリア時代は1900年くらいまでだったよな・・・」から・・・

「なら、労働党が二大政党の一つとなったのは、1900年代(20世紀)前半でいいだろうな・・・」・・・というふうに、考えられればいいです。

すべて記憶しておかないといけない、ということはまったくなく、いろいろなアプローチから、正答にたどりつけるようにしておきましょう。

共通テスト「世界史」は、以前のセンター試験「世界史」のように、思考力によって解ける問題になることは、まちがいないでしょう。

④:ルール占領(1923~25)なので、もろに第一次世界大戦関連のできごとです。

国土が戦場になったフランスは、ドイツが再び強国になることを恐れ、ドイツの賠償金の支払いが遅れていることを口実に、ベルギーを誘いドイツのルール地方を占領しました。

以上、みてきたように、この問題も年号を覚えていてどうの、という問題ではなく、2つの世界大戦に直接的に結びつくものとそうでないものを判断せよ、という問題でした。

問題の本質を、みきわめられるようになりましょう。

正解:②

第4問A 問2⑴

特徴的な問題です。

正解は複数(実際には2つ)あり、そのうちどちらを答えてもよい、ということです。

しかも⑵と関連しているので、⑴だけで判断せず、⑵で答えられそうな方を選ぶことも必要になってきます。

さて、問題に入りましょう。

Aの説明文から、これは「ポーランド分割」に関するものだということは、わかります。

ポーランド分割に関して、くわしいことは後で問題の解釈のところでみていくとして、先に地形的な観点と与えられた風刺画から答えを出しておきましょう。

そもそも、これらの3国が、なぜポーランド尾を分割するか?
ポーランドを分割してどうするか?・・・から、考えてみましょう。

・・・自国の領土にするためですよね。
そう考えると、隣接(りんせつ)する国だろうと、考えられます。

選択肢の中から、ポーランドに隣接していた国を探すと・・・

「ロシア」と「プロイセン」が、選べます。

細かい地図を思い浮かべられなくても、現在の地図でいっても、ドイツとロシアの間に位置するのが、ポーランドなど、いわゆる東欧とよばれる国々です。

一応、地図でも確認しておきましょう。(ただし〔略図〕なので、みにくいかもしれません。各自、ご自身がお使いの教科書や図録で確認しておくとよいでしょう。)

ポーランド分割(国名入り)

(18世紀半ば〔ポーランド分割前〕のヨーロッパ〔略図〕)

ポーランドが、プロイセンとロシアにはさまれているのが確認できます。

なお、オーストリアはあまり接していないようですが、ハンガリー王国がすでにオーストリアのハプスブルク家の支配に入っています。(オーストリア=ハンガリー帝国に再編されるのは、だいぶ後で、1867年です)

ハンガリー王国に隣接している部分が、ポーランド分割によりオーストリア領になります。(もっとも、風刺画でオーストリアは最初から与えられているので、ここは問題ないでしょう。)

また、オスマン帝国もポーランドと接してますが、ヨーロッパの国々が、わざわざイスラーム勢力と協力することはないでしょう。

まちがいの選択肢である、イギリス、フランス、イタリアは、ポーランドとは離れていますね。

さらに、ポーランドが消滅することになった第3回(1795年)のポーランド分割は、フランス革命(1789~99)の、どさくさにまぎれて行われた、という面も持っています。(ここ、大切ですよ。)

フランスやイギリスに、ポーランド分割にかまっている余裕(よゆう)はなかったでしょうし、イタリアはこの時期、まだ分裂状態にありました。

次に、君主の名の組み合わせをみていきましょう。

「プロイセン」から、みたほうがいいでしょう。
選択肢に1つしかありません。

フリードリヒ2世(位1740~86)・・・これで問題ありません。
プロイセンを強国にした啓蒙専制君主です。

次に、「ロシア」です。

設問に「正しいものは複数ある」とはっきり言われている以上、「い」がプロイセンのフリードリヒ2世であることは、確定です。

よって、「あ」はロシアということになり、「あ」は女性ですよね。

選択肢①、ロシアの女帝であるエカチェリーナ2世(位1729~46)でよいと確認できます。

18世紀(1700年代)のヨーロッパ史の概観(がいかん)をみながら、他の選択肢も検討していきましょう。

18世紀は、イギリスで産業革命が進み、後半にはフランス革命がおこった、という時代です。その一方で、プロイセンやオーストリアが、力をつけてきた時代でもあります。

そして、18世紀の終わりにポーランド分割があります。
やはり、フランス革命とポーランド分割が同時期、というのは時代感をつかむため、大切なポイントになります。

まず、選択肢②ですが、古すぎますね。「あ」が女性ということで入れたのでしょうが、エリザベス1世(位1558~1603)は16世紀後半のイギリス絶対王政の極盛期の女王です。

また、新興の国々をみますと、オーストリアのマリア=テレジア(位1740~80)、プロイセンのフリードリヒ2世(位1740~86)、ロシアのエカチェリーナ2世(位1762~92)が、ほぼ同年代と考えてよいです。

この3人が、1972年の第1回ポーランド分割の中心人物です。
オーストリアは、マリア=テレジアの長男のヨーゼフ2世(位1765~90)とマリア=テレジアの共同統治の時代に入っていて、風刺画のオーストリアが示す人物は、ヨーゼフ2世でしょう。

選択肢③:(どっちにせよちがいますが・・・)、ルイ14世とありますが、フランス革命とポーランド分割が同時期なので、ポーランド分割が行われたころのフランスの国王は、フランス革命で処刑されたルイ16世(位1774~92)です(よくみると、在位年がちょうどポーランド分割の第1回と第2回の間で、正確にいうとはずしていますが、細かいところはどうでもいいです)。

ルイ14世(位1643~1715)は、17世紀末から18世紀初頭にかけての、フランスの絶対王政が全盛期だった頃の王様です。

選択肢④:だいぶ新しいです。ニコライ2世(位1894~1917)は、ロシア革命(1917年)で処刑されたロシアのロマノフ朝(1613~1917)の最後の皇帝です。

選択肢⑥:ヴィット-リオ=エマヌエーレ2世は、イタリア統一に成功し、1861年に成立したイタリア王国の初代国王になった人物です。(サルデーニャ国王:位1849~61、イタリア国王:位1861~78)

ここで重要なIOPがあります。

日本、ドイツ、イタリアのスタート

第二次世界大戦で敗戦国となった、日本、ドイツ、イタリアの三国が、ほぼ同時期に近代国家として始まった、というのは興味深い偶然です。

いえ、むしろ、その後の展開は必然と呼べるような要素があったのかもしれません。

具体的な年号をあげておきますと、日本で明治維新がはじまったのが1868年、イタリアが統一されイタリア王国が成立したのがそのちょっと前の1861年、ドイツが統一されドイツ帝国(1871~1918)が成立したのがそのちょっと後の1871年です。

どうでしょう?

こういうふうに考えられると、自然と年号も覚えられると思いませんか?
実際、世界史が得意な人って、このように考えるので、覚えようと思わなくても自然と年号まで覚えているものです。

ということで、ヴィット-リオ=エマヌエーレ2世が出てくるのは、19世紀の半ばのことです。先にも述べましたが、ポーランド分割の時期、イタリアはまだ分裂した状態でした。

正解:①または⑤

各君主の在位年など、少しゴチャゴチャしてしまったと思います。

次の問題にもつながりますし、動画の方で整理してみます。



第4問A 問2⑵

⑴で選んだ答えに対応した答えでないと、不正解になるので注意です。

選択肢を、みてみましょう。

特徴的なのは、bのウィーン会議(1814~15)です。
全ヨーロッパ諸国が参加した会議なので、もちろん⑴の選択肢で出てきた国々も、すべて参加しています(注:イタリア王国は、まだ成立していないので参加していません)。

⑴で①か⑤のいずれを選んだとしても、bは必ず入るということです。

特に、ロシア代表のアレクサンドル1世(位1801~25)は、ウィーン会議の際、神聖同盟(1915年:成立)の結成を提唱し、存在感を示しました。

それでは、⑴で①を選んだ場合(ロシア)から、みていきましょう。

おそらくですが(私は、この問題をみた瞬間、絶対そうだろうと思いましたけどね…)、bが中心で、その前後を決めていく問題であるでしょう。

「第3問A 問3」でみたように、1800年はヨーロッパ史をみていく上で、大きな区切りのうちの1つです。少しずれていますが、ウィーン会議は1800年ごろに行われたと、とらえられます。

ナポレオン戦争によるゴタゴタが一段落し、その後、ヨーロッパ列強は積極的に海外伸長政策を進めていくことになります(これを、帝国主義といいます。1800年以降、この段階に入ったと、とらえるといいでしょう。)。

ロシアにせよプロイセンにせよ、ウィーン会議に参加するとう時点で、国としての基盤はしっかりとかたまっている状態に、すでになっているといえます。

年代順に並べる問題ですが、おそらく、その構成は・・・

「その国がここまで成長してくるための礎(いしずえ)になったできごと」→「b(およそ1800年くらいのできごと)」→「その後のエピソード」・・・のような形になると予想できます。(そうではないかもしれませんが、それならそれで対応できます。)

このようなこともふまえ、選択肢を順にみていきましょう。

a:プロイセンとオーストリアの争いのことですね。
後で、「プロイセン」についてみていくときに補足します。

c:ローマ教皇領はイタリアにあるので、イタリアの話です。

ローマ教皇領は、1870年にイタリア王国に占領・併合されましたが、第2次世界大戦前の1929年、ムッソリーニにより、和解が成立しヴァチカン市国として独立しました。

d:これが、ロシアについて述べたものです。

大帝とよばれるピョートル1世(位1682~1725)の功績の1つです。

北方戦争(1700~21)でスウェーデンを破り、バルト海意の覇者となりましたが、その戦争の際、バルト海に臨む地に建設をはじめ、後に都(首都)としたのがペテルブルクです。

ピョートル1世は、内政や対外政策に活躍し、ロシアをヨーロッパの強国の1つにしました。

在位年でいうと、フランスのルイ14世とかぶる時期です。

これが、「b」の前にきます。

e:テューダー朝(1485~1603)は、ばら戦争(1455~85)の結果成立し、⑴の選択肢②でみたエリザベス1世まで続いた王朝です。
テューダー朝のもと、イギリスの絶対王政が確立しました。

風刺画の「あ」が女性で、⑴でフェイクの選択肢として女王エリザベスを入れたので、この選択肢でしょう。

いわれてみれば、イギリスについて年代順に配列せよ…といわれたら「e → b → h」で、きれいに答えですね(注:⑴で②は正解ではないので、不正解ですけどね。選択肢にも「e → b → h」は、ありません)。

f:オランダ独立戦争(1568~1609)の際にむすばれた条約です。

ほぼ現在のオランダにあたるネーデルラントの北部7州が、1579年、ユトレヒト同盟をむすび、独立戦争を戦い抜きました。

g:前問でも確認しました。
「プロイセン」についてみていくときに、改めて確認します。

h:第一次世界大戦(1914~18)の話です。

ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立が、その背景の1つにありました。

ロシアのその後(bの後)の話です。

「d → b → h」なので、⑴で①を選んだ場合、④が正解になります。

次に、⑴で⑤(プロイセン)を選んだ場合を確認します。

a:シュレジエンは鉄や石炭などを産出する資源の豊富な地域です。

シュレジエンの位置

(注:かなり大ざっぱな略図です。場所〔位置〕が問題になることも多いので、教科書や図録などで、正確な位置を確認しておきましょう。)

プロイセンのフリードリヒ2世(位1740~86)と、オーストリアのマリア=テレジア(位1740~80)は、この地をめぐって、激しく争いました。
二人が同じ年に即位したというのも、象徴的です。

マリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を継承することに、フリードリヒ2世が異議をとなえ始まったのが、オーストリア継承戦争(1740~48)です。

この戦争で、プロイセンはシュレジエンを獲得します。

その後、シュレジエン奪回(だっかい)をめざすマリア=テレジアは、長年敵対していたブルボン家のフランスと同盟を結ぶ(外交革命)など準備を進めます。

これに対し、プロイセンはイギリスと結び、オーストリアに戦争をしかけます。これが七年戦争(1756~63)です。

プロイセンは苦戦しますが、シュレジエンの確保には成功し、ヨーロッパの強国の地位につきます。

シュレジエンの獲得は、まさにプロイセンが成長する礎(いしずえ)だったといえます。これで、「a → b」のならびが決まります。

また、g:ドイツ帝国は、プロイセンによって建国されます(1871年)。

先ほどみたように、それは19世紀半ば(もちろん、b:ウィーン会議の後)のできごとです。これで「a → b → g」のならびが決まりました。

⑴で⑤を選んだ場合、正解は①です。

正解:(⑴で①を選んだ場合)④/(⑴で⑤を選んだ場合)①

第4問B 問3

ア:「綿(めん)織物(おりもの)」か「絹(きぬ)織物」の選択になります。

だいじょうぶだとは思いますが、わからない人もいるかもしれないので補足しておくと・・・

「綿〔木綿(もめん)〕」は、水分吸収性に優れ、汗などの水分を吸収してくれるのでシャツなどの下着などに使われる素材です。今、みなさんがきているシャツも、おそらく木綿でしょう。

「絹」は、すべすべとした肌触りの素材です。日本の着物(きもの)などをイメージするとよいと思います。

さて、設問をみてみますが、「柔らかい」という表現から「絹織物(b)」の方と、判断していいでしょう。

また、中国といえば「絹織物」が有名です。
古代から「シルクロード(絹の道)」を通して、ヨーロッパの方にまで、中国原産の絹は運ばれていました。

冒頭の内容ですが、「綿と絹のちがいなんて、わからないわけないだろ」と、思った人も多いかと思います。

そこで、私からみなさんに問いかけです。

本当に、綿織物と絹織物のちがいを意識できているでしょうか?

輸出品や輸入品などでこれらの言葉が出てきたとき、本当にどれがどっちか…など意識できていますか?

私自身は、高校生のとき、「こういうところを意識しないといけない」と三年生の9月くらいに感じて、同時に自分の勝利を確信しました(センター世界史は、とろうと思って100点でした。もう、30年も前の話ですが…)。

綿織物を綿織物として、あるいは絹織物を絹織物として、意識するだけで、歴史のリアリティがよりつかみやすくなり、頭に入りやすくなってきます。

また同時に、綿の原料は植物由来の「綿花」、絹の原料は動物であるカイコ蛾(が)がつくる「生糸」ということも、しっかり意識しましょう。

「綿花」の生産と「綿織物」の生産も、別だという視点もあります。

もともとは同じものであるはずですが、イギリスの産業革命でそれがどのように変わったか?・・・また、その後のインドの植民地支配にも大きく関わってきます。

中国を中心とする東アジア圏の歴史にも、大きくかかわっています。

一度、「綿花」と「綿織物」、さらに「生糸」と「絹織物」をしっかり区別して意識して、輸出品や輸入品などを見直してみることを、おすすめします。

読み取れる事柄:資料1と資料2が、「中国王朝」と「遊牧国家」のどちらの視点から書かれているかで判断するのがよいでしょう。

資料1の突厥(とっけつ:トルコ)や、資料2のモンゴルが、ここでいうところの遊牧国家にあたります。

中国王朝に警戒しながらも、やはり中国から得られる絹などの物品は、彼らにとって助けになっていることがうかがえます。

正解:④

第4問B 問4

まず、630年の段階で中国を支配していた王朝が何だったかを、判断する必要があります。

やはり、各王朝の存在年代の数字だけを覚えて、完ぺきに覚えきる、・・・というのは、無理のある話だと思います。

大まかな歴史の流れでつかむことを優先しましょう。
「第3問B 問6」でみた図を、もう一度みてみましょう。

古代ユーラシア

前漢(前202~後8)から後漢(25~220)にかわりますが、紀元の前後200年の、計400年間のタームが「漢(前202~後220)」が栄えていた時代と、とらえることができます。

ここまで、ヨーロッパの歴史を「400年間」のタームでとらえる方法をみてきました。

これを中国史でも、できないか、みていきましょう。次のタームは、200年~600年の400年間です。

いけますね。いわゆる魏晋南北朝(ぎしんなんぼくちょう:220~589)といわれる時代です。

細かい年号は、本当に後からでいいです。だいたい200年くらいから600年くらいまでの400年間・・・と、おさえることができますね。

魏晋南北朝時代は三国時代からはじまり、強大な統一王朝が出てこなかった時代で、(分裂期)と、とらえることもできます。

その後、(581~618)が出てきて中国を統一し、隋はすぐに滅びますがそれを次(つ)いだ(618~907)が、大帝国に成長します。

中国王朝の変遷

どうでしょうか?

このように、だいたい600年頃の話とおさえられれば、隋が成立したのが589年、唐が成立したのが618年・・・というのは、自然に入りますよね。

また、正確に数字が入らなくても、600年くらいだということがわかっていれば、世界史で点数はとれます。

さて、設問にもどりますが、630年なのでこの中国王朝は「唐」だと、わかります。選択肢をみていきましょう。

①:日本史は関係ないや、・・・と思っている人も多いかと思いますが、中学校のときに歴史で勉強した内容は、頼りにしましょう。
(中学の歴史の教科書を読み直すことは、強くおすすめします。ある程度、勉強している方が読むと、ポイントポイントがまとめられていて、びっくりするくらいですよ)

隋・唐にならい、日本でも租調庸制が導入されました。農民に口分田を与え、その分、税を納めさせるしくみです。

このしくみには、農民に最低限の生活を保障し農産物をつくらせる、という目的がありましたが・・・あまり、長くはうまくいきませんでした。(それはそうでしょうね。現在でも、税を確実に納めさせるためにマイナンバーがどうの、といっているくらいです。古代に戸籍(こせき)を正確に管理しつづけるというのは、至難(しなん)の業(わざ)だったでしょう。)

さらに、一部の有力者が土地を私有する「荘園」が発達しました。

唐でも同じです。

隋・唐で、口分田を支給する制度のことを均田制(きんでんせい)といいました。しかしこれも、経済的な問題で、没落(ぼつらく)し逃亡する農民が増えて、くずれはじめました。

特に、8世紀半ば、安史(あんし)の乱(755~63)の後、唐の統制力は弱まります。

均田制は崩壊し、貴族の土地占有である荘園が発達します。

租調庸制で税収を集めることができず、780年、かわりに両税法(りょうぜいほう)が採用されました。

両税法のポイントは、「現実に所有している土地に対して課税」というところです。口分田を与えてそれに税を課す租調庸制とは、その性質がちがいますよね。

このポイントが意識できていれば、選択肢①が両税法のことだとは、わかるはずです。さらに、日本の歴史についての知識から、それは唐の時代の話だということは、自然と納得できるはずです。

①が、正解です。

なお、両税法の「両」は「夏・秋の『2回』課税する」という意味です。
どうしても「両」の字の方が印象的ですが、こちらはこの税法の本質ではありまえんよね。

本質は、先にも述べましたが、「現実に所有している土地に対して課税」というところにあります。

出題者も当然、このことはわかっていますし、みなさんにもわかってもらいたいので、このような設問文になっています。

例えば、設問文に「夏と秋の2回課税した」などの記述があると、もっと簡単に両税法のことだと判断できますよね。受験者が両税法についてわかっているかを試すため、あえて、そちらには触れていないとうことです。

もっとも、問題の難易度や他の選択肢とのからみで「2回課税」の記述が入ることもあるでしょう。

しかし、基本的には、このように本質的な内容をとらえられているかが問われます。

冒頭でも述べましたが、共通テストは、各教科の専門の一流の先生たちが、ねりにねってつくられるテスト問題です。

学校の定期テストはもちろん、模試などと比べても、はるかに完成度の高い問題だということは、こういうところからもうかがえます。
そのことをしっかり意識して、これからの勉強を進めましょう。

他の選択肢も、確認しておきましょう。

②:中国の政治体制のしくみとして、皇帝が絶大な権力をもっています。国力そのものが衰えることはありますが、国内ではその権威は変わりません。

中国は他の国々と比べても、しくみとしてトップ(皇帝)の権限が強かったという分析もあります。

話を単純化すると、「王」の上が「皇帝」ですからね。

そういえば、この選択肢はよくみると、皇帝ではなく天子という語を使っています。

「皇帝」という称号を始めて使ったのは、秦の始皇帝でした(前221年)。

選択肢②はその前の、春秋・戦国時代(前770~前221)の話です。

③:先に文語と口語のちがいについて、みておきます。

一般には、「文語=書き言葉」、「口語=話し言葉」という意味ですが、文学史においては、もう少し深い意味をもっています。

わかりやすいように日本の例で説明します。この場合、文語とは平安時代くらいの文法を基礎に発達した書き言葉ですが(ちょうど、みなさんが「古文」でみているようなものです)、その後、時代を経ても、書物を書くときにはその書き言葉を使うのが慣例(かんれい)でした。

江戸時代や明治時代になって、だれもそのような(「古文」の題材でみられるような)話し方はしなくなりましたが、文章を書くときには、そのような昔からの書き方をするのが、よしとされていたということです。

これは日本特有の現象ではなく、他の多くの国でもこのような現象がみられました。文章を残す、というのは重みのある行為なので、それもしかたのないことなのでしょう。

日本の場合、明治時代に、文語ではなく話し言葉(口語)で文章を表現するようにしよう、という動きが始まりました。

中国でも、辛亥革命(しんがいかくめい:1911)後、従来のような難解な文語ではなく、やさしい口語で文学を表現しようという白話(白話文学)運動がはじまりました(口語を中国語では白話といいます)。

また、この動きを文学革命といいます。
選択肢③は、このことです。

みなさん、この解説を読んでいるということは、共通テストで国語も受験されることと思います。

「漢文」も扱われるでしょうが、あれって中国の文学ですし、いつごろから日本に入ってきたかといえば、遣使や遣使を派遣していたころですよね。奈良時代から平安時代にかけての時期です。

学校授業を思い出しましょう。「漢文」であつかっている題材は、春秋・戦国時代のものから唐代やさらにその後のものなど、幅広い時代のものを扱っています。

「漢文」として扱われるものが、中国の文語による文学にあたるものと考えて、ほぼほぼ、まちがいないでしょう。唐の時代の文章も、文語にあたります。

④:これなんか、よゆうで消せますよ。
まず選択肢の文をよく読むと、「官僚登用法」とあります。

選択肢の内容がピンとこなくても、中国の官僚登用法といえば、科挙です。
受験生のみなさんにとっては、印象に残りやすいところですよね。

科挙は隋のときにはじまり、唐に受け継がれました。
唐の時代にはすでに、中国では人材登用法が確立しているということです。

設問文の内容は、三国の(ぎ:220~265)で始められた九品中正(きゅうひんちゅうせい)のことです。それをになった役人は、中正官とよばれました。

隋の初代皇帝楊堅〔文帝〕(ようけん〔ぶんてい〕:位581~604)は、598年、中正官を廃止し、科挙を始めました。

正解:①

第4問B 問5

古代から中世にかけて、絶大な力をもっていた中国では、周辺諸国との貿易は、朝貢(ちょうこう)貿易が基本です。

朝貢とは、周辺諸国(の国王)が、自分が中国皇帝の臣下であることを認め、皇帝に貢物(みつぎもの)を献上し、皇帝は、その見返りに恩恵として返礼品をもたせる、というものです。

最初は儀礼的なものでしたが、しだいに貿易そのものも、そのような性格をもつものとされました。それが、朝貢貿易です。

特に明(みん:1368~1644)にそれが顕著(けんちょ)で、それについては弊社の人気ブログ記事「勘合貿易の秘密(勘合符を持たせた本当の理由とは?)」にくわしいです。興味がありましたらどうぞ。

この設問では、中国と対等の立場に立ったものではないものを選べということです。

ですので、逆にいえば「朝貢貿易」の内容を表したものを選べ、という問題ともいえます。「朝貢貿易」は、直接問われて答えになるような用語ではないですが、こういう、本当はものすごく「重要語」というところを意識できていると、本当によいです。

①:聖徳太子が小野妹子に持たせ、隋の皇帝がこれをみて「『日没(ぼっ)する処の』とは、何と失礼な」といって激怒した、問う話が伝えられている国書です。

もっとも、日本としては上から目線になったつもりはなかったでしょうが・・・少なくとも、対等の関係で接しようという姿勢がうかがえます。

②:「臣属して」、「厚い恩を受け」など、朝貢貿易の内容です。最後には「朝貢している」とも言ってますしね。これが正解です。

③④も、中国と自国は対等なのだ、という姿勢がうかがえます。

正解:②


以上です。ありがとうございました。
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執筆:井出進学塾(富士宮教材開発) 代表 井出真歩


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