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2021年 共通テスト「世界史B」過去問解説③第3問(解説動画付き):令和3年度 大学入学共通テスト 本試

第3問以外の大問の解説は、こちらのページにまとめております。

それでは、第3問の解説をはじめます。

第3問A問1 知識問題です。特に何の分析もありません。すみません

〔作者の名〕:『デカメロン』(1348~53)の著者は(い)ボッカチオ(1313~75)です。イタリアの人文主義者であり作家です。
ルネサンス期の、主な人物とその著作は覚えておきましょう。

ルネサンスはイタリアで始まりましたが、その先がけがダンテ(1265~1321)です。代表作は『神曲』(しんきょく:1304~21)です。

ダンテの次に出てきたのが、(あ)のペトラルカ(1304~74)やボッカチオです。2人には、親交もありました。ペトラルカは、ルネサンス(文芸復興)の名の通り、古典作品を多数復活させた古典研究者として有名です。

(う)のエラスムス(1469頃~1536)は、ペトラルカやボッカチオより1世紀以上後に出てきたネーデルラントの人文学者です。

エラスムスは16世紀最大の人文主義者(ヒューマニスト)と称されます。代表作は『愚神礼賛』(ぐしんらいさん)です。

〔文化の特徴〕:ルネサンスの根本精神としてあったのは、ヒューマニズム(人文主義)です。

ダーウィン(1809~82)が進化論を発表するのは、ルネサンスよりだいぶ後の時代で、19世紀のことです。帝国主義の時期になので、だいぶ時代感もちがいます。

正解:④

第3問A問2 だから、1348年って書いてあるでしょ

〔病の名称〕:中世ヨーロッパをおそった病なので、これはペスト(黒死病)ということでいいでしょう。資料にもありますが、「1348年」頃からの大流行では、人口の3分の1を失わせました。


〔病に関する説明〕:選択肢を1つずつ検討していきましょう。

X:『デカメロン』によると、男女差(性別によるちがい)はないようですが、オリエントとフィレンツェでは兆候がちがうと書かれています。
地域差があるので、この選択肢はちがいます。

Y:ありそうですよね。保留にしておきましょう。

Z:絶対にないですよね。コロンブスがアメリカ大陸に到達したのが、1492年です。アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされようがないです。
だから、1348年って書いてあるでしょ。

なお、プレテストのときのものですが、「コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは、1492年なんて、あたりまえじゃん」・・・と思えるようになる解説動画を、下に貼っておきますので、よろしかったらどうぞ。

選択肢Yは正しく、特にイギリスではこの現象が顕著で、かつての農奴はヨーマンと呼ばれる独立自営農民になっていきました。

正解:⑤

第3問A問3 クイズ王ならみた瞬間、答えがわかる問題ですが、我々はまじめに考えましょう

これも細かいところまで覚えていてどうの?・・・という問題ではありません。誤りの選択肢は、これでもか、というくらいに誤っています。

単に「人物名」と「修道院名」が、あっていないということではないですよ。それ以前に、年代が大きくずれています。(細かい年号ではなく、大まかな年代をおさえられることは、世界史には必須の能力です。)

また、年代以前に、もっともっと根本的に誤っているものです。

これが、共通テストという公の練り込まれたテスト問題のレベルの高さです。細かい年号や事柄を暗記していなくても、歴史上の重要人物や重要事項の本質的なことさえおさえられていれば、その場で思考し解答できます。

みなさんも過去問を使った勉強で、そういう視点を身に付けましょう。
これからの学習効率がグンと、上がります。さらに言えば、そういう能力は、他の教科にも相乗効果をもたらします。

問題にもどりましょう。この問題のポイントは・・・

修道院とは、どういうものか?

・・・ということにあります。
それさえ意識できていれば、正解できます。

それを念頭に入れながら、まずは基本的事項を年表を使って確認してみましょう。この簡単な年表を自分でつくってみて、解説のポイントを書き込みながら進めるといいでしょう。

ヨーロッパの歴史

選択肢①のインノケンティウス3世(位1198~1216)は、ちょうど1200年前後の、教皇(教会)の権威が絶頂に達した時期のローマ教皇です。(絶頂・・・ということは、それからは落ちていくということですからね。その意味でも、この1200年で区切ったタームは有用です。)

また、選択肢③のクローヴィス(位481~511)は、ゲルマン最大の国であったフランク王国メロヴィング朝:481~751)の国王です。

ちょうど800年に、フランク王国カロリング朝(751~987)のカール大帝(位768~814)が、ローマ教皇より戴冠を受けました。

メロヴィング朝はカロリング朝の前なので、フランク国王クローヴィスは、400年~800年までのタームの話ですね。

一方、もともと修道院とは、どのようなものであったか?
それを確認してみましょう。

中世ヨーロッパを通し、ローマ=カトリック教会の権威は、どんどん絶大になっていきます。権威が高まれば、どうしても世俗化します。

世俗化した教会とは距離を置き、聖書にもとづき清貧(せいひん)をむねとし、修行にはげむのが修道士であり、修道士の集まりが修道院です。

西ヨーロッパでは、400年~800年のタームの6世紀頃から、このようにキリスト教の原点に立ち返ることをめざす修道院運動が広まりはじめました。

だから、選択肢①や③は、おかしいのです。

修道院というのはもともと、教会のトップの教皇や強国の国王がつくるような性質のものではありません。

教会の中心(権力)からもっとも離れたところで、まじめに修行しようとする人たちの集まりが修道院です。修道士・修道女は、結婚することも禁じられていました。

もっとも修道院も時間がたつと世俗化し、腐敗することもありました。
そうすると、また新たな修道院運動がはじまり、・・・という繰り返しです。

少なくとも選択肢③のように「改革運動」とあれば、キリスト教の原点にもどろうという「修道院運動」のことです。年代などがあやふやでも、ここで選択肢①と③を消してかまいません。

これで答えは②とわかります(④は明らかにちがいます。後述します)が、せっかくなので、この問題を使って、もう少し歴史の流れを確認しておきましょう。

ここも、年表に書き込みながら進めるといいでしょう。(これが難しいという方は、解説動画の方もさんこうにしましょう。)


それでは、選択肢①から内容をみてみましょう。

イタリアの修道者、ベネディクトゥス(480頃~547頃)が、529年、モンテ=カシノに修道院をつくります。これが、西ヨーロッパ最古の修道院です。

以後、ベネディクトゥスのつくった規範(会則)は西ヨーロッパの修道院運動の規範となり、モンテ=カシノは修道院運動の聖地となります。

年代がまったくちがうということもありますが、権力の頂点にいた教皇インノケンティウス3世と、世俗を離れた修業の場である初期の修道院は、むしろ対極の事象ともいえますね。(もちろん、こういうところまで考えて、まちがえの選択肢もつくられています。)

次に選択肢③を、みてみましょう。

クローヴィスが、キリスト教の正統派であるアタナシウス派に改宗(496年)することで、フランク王国とローマ教会は、ともに力を伸ばし協同して西ヨーロッパ世界を形成していくことになります。

(①でみたモンテ=カシノ修道院は529年設立でした。まさに、ローマ教会とフランク王国が強大化していく中で起こった動きであることが、わかります。)

一方、クリュニー修道院が改革運動を進めたのは、800年~1200年のタームである10世紀(900年代)以降のことです。

キリスト教は人々の社会生活や思想に根差していったので、ローマ=カトリック教会の権威は、ますます強くなっていきました。
また、修道院も初期の理念はうすれ、世俗化していきます。

大司教(だいしきょう:カトリック教会で教皇に次ぐ役職)や修道院長などは、国王や貴族から荘園の寄進を受け、大領主でもありました。
聖職者と国王らが、互いに利用し合う状態です。

でも、こうなると皇帝や国王など世俗権力の、教会への介入を招きます。
聖職売買(司祭など教会の役職を売り買いすること)など、さまざまな弊害が生じました。

これらに対して、クリュニー修道院(910年設立)を中心とした、改革運動が起こります。聖ベネディクトクスの教えに回帰し、厳格な修道生活を実践します。

クリュニー修道院は、教皇直属の特権も得て、教会改革運動の中心となります。

この改革運動は、世俗権力の教会への介入を何とかしよう・・・というのが背景にあります。教皇が、この改革運動に協力しおしすすめたのも、そのためです。

この800年~1200年のタームは、教皇(教会)の権威が上がっていき、国王や皇帝の力が弱まっていくタームでした。この流れの中、教皇がうまく修道院運動を利用した・・・という面もあるでしょう。

クリュニー修道院の改革運動からはじまったこの流れは、皇帝や国王といった世俗権力にとってマイナスであるものでした。うまくつくられた誤りの選択肢ですね。(くどくなるので、詳しくは解説動画で…)


選択肢④も消しやすいと思います。

「修道院を解散し、その財産を没収した」・・・っていうのは、よっぽどのことですからね。ローマ=カトリック教会を、完全に敵に回すつもりでないとできません。

これは、イギリスのチューダー朝(1485~1603)のヘンリ8世(位1509~47)によって、行われたことです。
これは、けっこう印象的ですよね。

彼は妻と離婚したかったのですが、カトリックでは離婚は認められません。
そこで、1534年国王至上法(首長法)を定め、カトリックから分離・独立し、イギリス国教会を成立させました。

その際に、ローマ教会と結ぶ勢力である、修道院を解散し、その財産を没収しました。(修道院はカトリック特有で、プロテスタントにはふつうありません。)

ヘンリ3世(位1216~72)は「3世」なので、ヘンリ8世よりだいぶ前の時代で、プランタジネット朝(1154~1399)時代のイギリス国王です。(大憲章〔マグナ=カルタ〕が認められたのが1215年なので、そこらへんと関係があります。余裕のある人は確認しておきましょう。)


よって、正解は②です。

12~13世紀の西ヨーロッパは、森林を切り開き耕地を広げる大開墾時代でしたが、その中心となったのはシトー修道院などを中心とする修道院でした。

シトー修道院では清貧と労働が重んじられていました。
開墾は社会奉仕であり、社会奉仕は修道院らしい活動です。

正解:②

なお、なぜクイズ王ならみた瞬間答えがわかるのか?については、別の機会にします。

第3問B問4 注意深くみていけば大丈夫です

こういう問題では、誤っている(正解の)選択肢は、注意深くみさえすれば、はっきり誤っているので大丈夫です。

選択肢④:科挙で重視されたのは、仏教ではなく儒教です。
これが正解です。これは当然におさえておくべき内容なので、①~③について記憶があいまいでも正解できます。

他の選択肢も、大切でない…ということはないので、簡単に確認しておきましょう。

①:フランスでは19世紀末、ブーランジェ事件(1887~89)・ドレフュス事件(1894~99)などの社会不安が起こりました。

20世紀初めになると、フランスはこれらの危機を乗り切り、共和国は安定します。1905年、政教分離法が成立したことも、その象徴です。

②:これは自信を持って、消せないといけません。
中世ヨーロッパでは、学問もまたキリスト教の支配下にあり、神学が最高の学問とされました。

③:イスラーム世界では学院(マドラサ)が、主要な教育期間でした。
セルジューク朝(1038~1194)で主要都市につくられたのを契機に、各地で設立されました。

正解:④

第3問B問5 「官僚」というのは国の中央政府ではたらく人たちのことです

改めて引用文をみてみましょう。

19世紀の初めのロシアといえば、農奴制が強固で市民の成長が遅れていた、という背景があります。(「19世紀」ときいて、ナポレオン戦争後のウィーン体制の時期だ、とすぐ分かるようになりましょうね。)

〔イ〕も〔ウ〕も、「農民の覚醒(かくせい)」に注意を払っていました。

ただし、〔イ〕が農民が覚醒するのをめざしていたのに対し、〔ウ〕は、それを防ごうとしていたようです。問3に関連する傍線部ⓑにも、けっこうひどいことが書かれていますね。

〔ウ〕は、農民が教育を受けることすら防ごうとしていたことが、うかがえます。ひどい言い方になりますが、知識をつけさせない方が、支配する側にとっては、つごうがいい・・・ということでしょう。

選択肢をみると、「官僚」か「革命家」が、〔イ〕か〔ウ〕に対応します。
「官僚」というのは、当時も今も同じで、国家の行政の中心をになうところで、はたらく人々のことです。

一方、「革命家」というからには「反政府側」になります。
〔イ〕が「革命家」、〔ウ〕が「官僚」ということでいいでしょう。

ここでいう革命家とは、ナロードニキ(人民主義者)と呼ばれる人々です。
1870年代のロシアで、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」をスローガンに農村に入りこみ農民の啓蒙活動に努めましたが、うまくいきませんでした。

正解:②

「無併合・無賠償・民族自決」は、第一次世界大戦(1914~18)中の1917年、ロシア革命によりロシア帝政が崩壊し、レーニンが主導する全ロシア=ソヴィエト会議で示された、第一次世界大戦の講和の原則です。

第3問B問6 正面からも、裏からもいけます

19世紀(1800年代)のロシアの歴史は・・・

アレクサンドル1世(位1801~25)
 → ニコライ1世(位1825~55)
 → アレクサンドル2世(位1855~81)

・・・と、皇帝を中心にまとめやすいので、それは各自やっておくとよいでしょう。(必ずやりましょうね。

しかし、共通テスト世界史では、すべて記憶していないと答えられない・・・なんてことは、絶対にありません。

細かいできごとや年号より、18世紀なら18世紀、19世紀なら19世紀がどのような時代であったか?・・・そういう時代感をつかめている方が、実際の得点力に、つながります。

それを示すために、ここでは裏からいってみます。


〔エ〕に入れる人物の名:19世紀ロシアで、農奴解放令(1861年)を発布した皇帝を選ぶことになります。

エカチェリーナ2世・・・ってことは、ないですよね。

・18世紀(1700年代)末に、フランス革命があったこと
・フランス革命の裏で、ポーランド分割が行われていたこと
・ポーランド分割では、ロシアのエカチェリーナ2世が主導的な役割をはたしたこと

・・・などから、ウィーン体制後の19世紀とは、時代が合わないと判断できます。(フランス革命とポーランド分割の同時期性ついては、「プレテスト世界史解説:第4問A問2⑴」にくわしいです。)

アレクサンドル2世が農奴解放令を発布したということも大切ですが、上記の内容も大切です。

(「アレクサンドル2世=農奴解放令」が、パッと出てこなくても正解できるということです。むしろ、「今ウィーン体制後の19世紀の話をしてるのに、なぜフランス革命の頃のエカチェリーナ2世が出てくんだよ…」と、自然と出てくるようになりたいですね。)

〔事績について述べた文〕:中学生のときにちゃんと勉強してたら・・・

・日本は1868年(19世紀後半)から明治時代
・明治初期の外交として、ロシアと樺太・千島交換条約を締結(1875年)

・・・ということが、定着しているかもしれません。(今からでもおさえましょう。中学の教科書は、高校の勉強でもっとも大切なことが濃縮されています。)

おそらく(X)でよさそうですが、アレクサンドル2世のときだったかどうかは、確証がありませんね。

少し時代がずれていて樺太・千島交換条約はアレクサンドロス2世の前後の皇帝のときだった・・・という可能性もあります。(もっとも、共通テストなので、そんな細かいところでいじわるしてくるはずがないので、もう正解と判断しても大丈夫です。)

もちろん共通テストは、受験者がアレクサンドル2世の在位年や樺太・千島交換条約の正確な年号を求めているわけでは、ありません。

また、この条約は、ある皇帝の功績・・・という種のものではありませんので、アレクサンドロス2世の功績ということを受験者がおさえていることを、求めているわけでもありません。

でも、大丈夫です。
(Y)が、これでもか・・・というくらいにまちがっているので、(X)が正解と判断できます。

クリミア戦争(1853~56)で、ロシアは敗北しました。
敗北したのに、「獲得」というのは、おかしいですよね。
よって、(Y)は、誤りです。

正解:③

当時、すでにクリミア半島はロシアの領土でした。
ロシアが欲しかったのは、不凍港(ふとうこう:冬でも凍らずに使える港)です。

ロシアは、クリミア半島や黒海沿岸をおさえ、地中海へつづく道を手に入れかけていました。

クリミア半島

それが阻止されたのが、クリミア戦争です。
ロシアがオスマン帝国領内に進攻しましたが、イギリス・フランスがロシアの南下を阻止するため、オスマン帝国を支援しました。

ロシアは敗北し、国会やダーダルネス・ボスフォラス両海峡の中立化を認め(これらの海域に軍艦を航行させられないということ)、ロシアの(西からの)南下政策は失敗に終わりました。

ロシアはこれからしばらく、国内改革に専念することになります。

第3問C問7 資料をまったくみなくても答えられます。ねらってやってると、思います

さすがに二つの世界大戦の年号は、あたりまえにしておきましょう。

2つの世界大戦

資料で紹介されているイギリス人作家の生存年をみると・・・

「1903~1950年」・・・まさに、2つの世界大戦という、激動の時代に生きた人物だと、わかります。(世界史を勉強している以上、最初からこのくらいは、気づけるように、なっておきたいところです。)

設問では、作者が作品に込めた批判の背景が問われています。
そこで、選択肢をみると・・・

これも、すぐに気づけるといいですね。
選択肢の②、③、④は・・・

典型的な、戦後(第二次世界大戦後)のできごとです。

・・・ということで、正解は①です。
②、③、④は、この作者が亡くなられた後に、起こったことです。
背景とは、なり得ません。

どのように「典型的」なのかは、確認しておきましょう。

まず選択肢②ですが、毛沢東(もうたくとう:1893~1976)が率いる中国共産党が国民党を破り、中華人民共和国を成立させたこと自体が、戦後の1949年のことです。(国民党は台湾に逃れ、台湾で中華民国政府を維持します。)

文化大革命(プロレタリア文化大革命)とは、中華人民共和国建国以来、最高の権力者であった毛沢東の最晩年の1966~77年にあった、政治権力闘争および社会・文化闘争のことです。


選択肢③に「開発独裁」とありますが、その代表的な国は大韓民国です。

戦時中、日本の植民地であった朝鮮は、戦後の1948年、ソ連とアメリカの勢力争いのため、南の大韓民国と、選択肢④にある北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として、分断されて独立します。

この2国間の争いである朝鮮戦争(1950~53)が、ちょうど1950年からですから、ここを歴史の流れをおさえるポイントとするといいでしょう。

開発独裁とは、発展途上の第三世界の国々でみられた、政府の強権的支配のもと工業化を進めていこうという体制のことです。

韓国で開発独裁がはじまったのは、1960年代くらいからです。③には、韓国と明言されていませんが、他のアジア・アフリカ・ラテンアメリカの開発独裁の国のことだったとしても、時期としては、だいたい同じです。

また、北朝鮮では建国以来、金日成(キムイルソン:1912~94)が初め首相として(任1948~72)、次いで主席として(任:1972~94)、独裁的権力をふるっていました。

その死後、その権力は一族に代々、世襲されています。


これもまた、細かい知識や年号ではなく、
「2つの世界大戦期」と「戦後」・・・という時代感が、つかめているかどうか?という問題でした。

作者の生存年をみて、その意味に気づける人に有利なように、ねらってつくられた出題だと思われます

作品の概要や作家の経歴も、おもしろいので、みておくとよいでしょう。

トロツキー(1879~1940)は、ロシア十月革命(1917年)でも活躍し、ソ連共産党の中心にいて、レーニン(1870~1924)の後継者と目されていました。

しかしレーニンの死後、スターリン(1879~1953)との権力闘争に敗れ、亡命先のメキシコで暗殺されてしまいます。

スターリンは、反対派に対し厳しい粛清を行いました。
この作家がスペイン内乱のときに従軍した組織は、トロツキーに関係のある組織だということですから、作者自身も厳しい弾圧を受けたようです。

正解:①

第3問C問8 「永楽大典」を編纂させたのは、永楽帝である・・・〇か×か?

まず、18世紀(1700年代)の中国の王朝ということなので、これは(1616(36)~1912)のことです。

第4代康熙帝(こうきてい:位1661~1722)、第5代雍正帝(1722~35)、第6代乾隆帝(けんりゅうてい:位1735~95)と有能な皇帝が続き、清朝は全盛期でした。

〔図書の名称〕:

国力が充実しているので、大規模な図書編纂事業も進み、『康煕字典(こうきじてん)』、『古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)』、『四庫全書(しこぜんしょ)』などが、編纂されました。

これらも、おさえておくべきことですが、他の選択肢が消せるので、そこから判断することもできます。

永楽大全(えいらくたいぜん)』は、名前のとおり永楽帝(位:1402~24)が編纂させたものです。永楽帝は(1368~1644)の時代の皇帝です。

資治通鑑(しじつがん)』はもっと古く、北宋(960~1127)の時代、司馬光(しばこう:1019~86)によって書かれました。


〔改ざんの意図〕:改めて、「」の時代の話だということを、ふまえましょう。

清の支配層は、「満州人」です。統治体制においては、満漢(まんかん)併用制など、「漢人」にも配慮をみせましたが、その分、習俗として満州人の風習である辮髪(べんぱつ)を強要しました。

あれだけ特殊な髪型を強要されるって、すごいことですよね。
でも、そのような形で漢人を服従させることは、清朝の支配にとって必要だったということでしょう。

問題にもどって「改ざん前の文章」をみてみましょう。
破線部の内容をとると、「漢人の風習にあった服を着たいのに、遼(契丹)の風習にあった服を着せられていて、残念だ」という内容です。

こんなの現代(清の時代)の漢人にみせられないですよね。
漢人は今、服どころか髪型まで強要されています。

なお、「中国が外国と盟約を結んでいたこと」を示す内容は、文章からは読みとれません。

正解:②


以上です。コメントなどいただけると、とてもうれしいです。
執筆:井出進学塾(富士宮教材開発) 代表 井出真歩

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