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0414『雪の下の蟹(古井由吉)』感想。

この感想は下記youtubeで語った後に、『文学の淵を渡る』と『こんな日もある』を読んで、多少煮詰めた感じのものになります。note最初の『蒼茫』もラヂオで語った後に再度考えたものです。

感想もない

初めて古井由吉を読んだが全く良さが分からなかったので、今回はどうして分からないのかがメインとなると思う。なので古井由吉ファンがいたら閉じて欲しい。
ただ古井由吉はどうも大人物らしく、調べると色々な方がその奥深さなどを語っている。日本語の、作品の、その奥深さを語っているのだけど、古井の文章と同様に、彼等の語る文章もよく分からないのだ。
少なくとも、古井由吉の小説で感動する人はいるけど、本を閉じて満足して同じ日常に戻る人が大多数だと思う。人生の軸がずれることはない。

左右対称から遠く離れて
古井由吉の名前のように、その表現は「AでもなくBでもない」のようなメインから左右対称に離れながら、物語は淡々と進んでいくのだけど、多分その心地良さが好きな人が古井由吉の小説が好きなのだろう。ただの日常が、簡潔な日本語で語られること。

雪の下の蟹

それでこのタイトルになってもいる「雪の下の蟹」はなんなのか?正直誰も正確に読み取っていない気がする。解説で大学紛争の暗喩やら戦時のパニックを書いているとあるけど、そんなわけはないと僕は思う。これはたんに北陸大豪雪を「日本語」で書いたというだけだろう。

『文学の淵を渡る』と『こんな日もある』から考える

あまりにも分からなくて、補助線になるかもと大江健三郎との対談『文学の淵を渡る』と競馬エッセイ『こんな日もある』を読んだ。そこでおもったことは、思いっきり端折って言うと、前者からは「日本語」で語ることへの執着、後者からは熱のなさ、だった。

『文学の淵を渡る』から

さすが大江健三郎との、文芸の二大巨頭の対談みたいなだけあってハッとした部分もあった。ただその文芸の見方が多彩に渡るから、二人がなにを軸にしているか、なにを固執しているかボヤけてしまう。そこをじっと見ると、僕的に古井由吉は、日本語で表現することに病的だと思った。外国語、古典、連歌、の「語として表現する」こと。対談でも日本語で書くことに強い拘りを見た。ただ古井由吉の辿り着いた日本語としての表現が、日本語を最大限に活かしていると、勝手に思わないほうがいいと思う。

『こんな日もある』から

競馬エッセイから何か掴めるものがあるか読んだけど、特になかった。これまた小説を読んだときと同じく、ただ淡々と表現されているだけであって、今日もレースと一週間がありましたね、と続くだけで、1986年から2002年までのエッセイがあるのに、そこに競馬風に言うわけではないけど、血統というか濃さがないように感じてしまう。熱がないというか、それが本気かわざとかは知らないけれど、小説同様、こういう場でも一歩引いて見ているのだろうと思った。

中身ではなく日本語として

だから古井由吉が多く作品があるのは、日本語に拘っているなら、なんとなく納得はいく。乱暴に言うと、中身は二の次で、日本語でどう表現できるか、なのだから。だから僕は古井由吉がよく分からないのだろう。


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