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傾聴と共感

傾聴と共感をすることはコミュニケーションを交えるためにとても大切なことなのだと感じる出来事に遭遇しました。

先日、娘の体温がいつもより高く、普段ならしない「耳を触る」という行動がしきりに見られ、妻が小児科に連れて行ってくれました。

その病院は妻の実家近くにある町の小児科で、妻も幼い頃からお世話になっているお医者さんと看護師さんでした。

中耳炎の診断が下り、薬を処方され「◯日に再受診に来てね」と伝えられ、いつもなら体温のチェック用紙をもらうのだが、この日はめずらしく渡されなかったと言っていました。

4日後の再診日。妻も仕事に復帰しているため、ときわぎが定休日だったぼくが娘と病院に向かいました。

「お熱のチェック用紙はある?」と聴かれたものの「妻が初診の時に渡されなかった」旨を伝えると「渡したはずだ」と言われ、こちらの意見は聴き入れてはもらえませんでした...

中耳炎は初診の時よりは良くなってはいるものの、完治はしていないのでまた受診してねと言われ、ぼくが都合のつく曜日と時間に予約をし、今回はしっかりと体温のチェック用紙を渡されました。

そして再々診の日...
再診の日からしっかりと朝 昼 夕と熱を測り、妻が用紙に記載したものをお医者さんに渡しました。

しかし、なぜか体温のチェック用紙には初診日からの日付が記入されており、妻が気付かずに再診日からの体温を初診日に書いてしまうというミスをしてしまいました。

あぁっ しまった...

「お熱測ってないじゃん」 

「いやいやっ 用紙をいただいたのは再診日だったので、記入しはじめた場所を間違えただけです」

「ちゃんと用紙は初診日に渡したでしょ」

「いやいやっ ◯日に再診した時にいただじゃないですか」

「そんなわけないでしょ 初診日に渡したでしょ...」

「...」
以下省略

ぷっちん... しーん... となり言葉を発することをやめ、ふつふつと怒りが湧いてきました...

そこでなぜ怒りが湧いたのかを考えてみした。
話を聴いてもらえないこと
話を遮られること
話を聴いてもらえると期待していたこと
自分の非を認めないこと

などが思い浮かぶとともに、もしかしたらぼくもそのような振る舞いをしているのではないか?と改めて自問する時間になりました。

また、そのような状況に陥るとコミュニケーションを放棄してしまう自分がいるのだなとも気が付きました。

帰ってから事の顛末を妻に伝えると「あそこの先生と看護師さんは昔からそんなもんだよ」「ネットの評価にもそんな意見ばかり書いてあるもん」と飄々としていました。

思い返せば、予防接種の時にもこんなことがあったような... 喉元過ぎれば暑さ忘れるとはこのことか... とはっとしました。

改めて「想定し構えておく」「傾聴する」「共感する」「自分の非を認める」ことの大切さに向き合うきっかけとなりました。

また、他人と円滑にコミュニケーションが図れないなと感じた時には、言葉のキャッチボールができていなかったり、間がずれているのかなとも考える機会となりました。

「人の振り見て我が振り直せ」

そんな苛々した出来事も「自分のことを顧みる必要があるよ」と言われているような気がした出来事でした。

お付き合いくださりありがとうございます。

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