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思い入れの強さというエネルギー

 好きなコンテンツの解釈って根拠がない自信をもってしまいがち、という話。意固地になってしまうものだからそれを押し付けないように、周囲への攻撃に変わらないように結構注意を要するものだなと、特にこの頃言語化するということを心掛ける中で思うわけです。

 好きな作品はというのは、感覚的に好きになって、そこから、何が良いと思ったのか、なぜ心が動いたか、の解説作業をするような感じで、大抵の場合その言語化も満足にはできていない。そんな程度のものにも関わらず、そのマイ解釈と違うものに反応するときの気持ちは激しく、自分でも驚くことがある。高校の教科書にあった萩原朔太郎「死なない蛸」が授業で扱われたとき、先生の解説がなぜか無性に「違う」と思い、授業後に反論に行ったことがあった。もう内容は定かではないものの(確か、自分としてはこれに希望を読み取ったが、絶望一辺倒の解説だったか、、)、そういう解釈もあるね、と聞いてもらえたにも関わらず、怒り冷めやらぬ、という感じだった記憶がある。これが、そうした謎のエネルギーとの最初の出会いだったと思う。

 もう少し細かい最近の例でいえば、好きな歌詞、ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」にThe First Takeのチャンネルで再会した際のこと。相変わらずまっすぐに飛び込んでくる昭仁さんの声に感動しながら、舌触りがとりわけ好きなフレーズは口ずさみながら、ついコメント欄を見てしまった。すると、完全同意、とか新しい角度や情報で学びがあるものもある一方で、「え、そこじゃなくない?」とか「そこ読み取れないんだ」とかの反応もしてしまう。ただのマウントである。もちろん書き込んだりはしないけれども、同時にそんな自分がほとほと嫌になる。解釈も何が気に入ったかも自由だしその角度が多い作品こそ魅力も深いというのに。
 ちなみに私は、AメロBメロのストーリーの格好よさに酔っていたところを「世界が表情を変えた」でヒットをくらって表情が変わった人です。

 そして現在の心配事がグレートギャツビーに関するもの。いつか別にそれだけで記事を書きたいと思いつつもどこから書いたらいいのかまだ見つけられないくらい、重い気持ちをもっているF・スコット・フィッツジェラルドの小説です。これ、新しい方の映画と宝塚版(2022年月組)舞台観た時にも結構思うところがあり、その荒ぶる気持ちを母にぶつけていた。ちなみにポイントは主にヒロイン、デイジーの部分的な解釈違いにあるが、演者はどちらも大好きだから余計に悔しい。デイジーは、共感しにくいわがままでもバカでも世間知らずでもなくて、鈴を転がすような声で京女気質で小柄で。というマイ解釈が強すぎる、というだけの勝手なものなのは分かっている。ただそもそもデイジーってあのそれぞれ単純な形容が難しいメンバーの中で特に複雑な人物のように感じる。
 3月からHadestownで大好きになったEva Noblezadaがデイジーを演じるThe Great Gatsbyがブロードウェイにくるので観に行く予定ではいるのだけれど、オフブロードウェイ時の感想で割と「原作をリスペクトしてない」的なものがあったのでまた気持ちが荒ぶりそうな不安もある。観るのが怖いけれど観ずにいられない。

 


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