ジャズとは
Facebookの「思い出」に9年前の投稿が表示されました。あー、あったなー、こんなこと。埋もれさすには惜しい(?)エピソードなのでここに残しておきます。
「若い女の子とつきあう上で一番大変なことは何だかわかるか?」
そういう話をするつもりで彼を誘って飲んでいたわけではないのだが、どうしても話はそっちの方向に行ってしまう。
「あのさ、ちょっと聞いてもらいたい話があるんだけどさ」
「俺もあるんだよ! ほら、この前から付き合い始めた彼女なんだけどさ、えらく若くてさ」
「いや、その話も聞くけど、俺の方はもうちょっと深刻な話で…」
「深刻な話は後にしよう! まず俺の話を聞けって、な?」
僕は諦めた。今夜、彼は僕の話を聞いてはくれないだろう。こちらとしては色々と相談したいことはあったのだが、彼の全身から発せられている「俺の話を聞けオーラ」は、それが不可能であることを示唆していた。
「わかんないよ、そんなこと」
最初に書いた質問に僕は答えた。当たり前だ。20才も年の離れた女の子と付き合った経験なんてないし、そんなことしたいとも思わない。
「大人の男らしいことを言わなくちゃいけないってことさ」
「大人の男なんだから普通に話せばいいじゃないか」
彼はわざとらしく顔の前で人差し指を左右に揺らした。そのしぐさからして「大人の男」とは言い難かったけれど、それは言わないことにして、僕は彼の話を待った。
「これが例えば、そうだなぁ、アベノミクスとは何かって聞かれたら…」
「パーラーアベのミックスジュースだって言っておけばいいだろうな」
「その答、いいな。使わせてもらっていいか?」
テーブルに置かれたフィッシュ・アンド・チップスの減りが妙に早い。僕のグラスの中のギネスが減るペースもだ。まずいなぁ、明日、授業詰まってるんだけどなぁ。
「この前、困ったのはさ、音楽の話になったんだよ」
「ほー。それはそれは高尚なことで」
強烈なオーラを発する彼の前に僕の嫌味は無力だ。
「彼女がこう聞くんだよ。『ジャズってどういう音楽ですか?』って」
「はあ」
「これはなかなか難しい質問だぞ。Wikipediaに載っているようなジャズの歴史を語ったって仕方ないし、だいたいそんな長い話、聞いちゃくれない。大人の男はすっと短く的確な一言で『ジャズとは何か』を語らなくちゃいけないんだよ」
久しく会わないうちに彼は何だか僕の考えていたような男ではなくなってしまったのかもしれない。自分はこいつに何を相談しようとしていたんだっけ? 思い出せないけれど、まあいいや。
「なあ、お前だったらどう答える? 俺はこう言ったんだよ。『夜、一人静かに飲みながら聴くのにもっともふさわしい音楽だよ』って。そうしたら彼女がな、『じゃあ私とは聞けないのね』って悲しそうに言うもんだからフォローが大変でさぁ。お前だったらどう言う?」
バカップル、という言葉が脳裏をかすめたが、もちろん口には出さずにこう言った。
「Art Blakey and The Jazz Messengers の Moanin' をターンテーブルに乗せればいい。最初の2小節で『ジャズとはこういう音楽だ』ってわかる」
彼は狐につままれたような顔をして言った。
「お前、なんだよ、それ。カッコいいじゃないか。よくそんなパッとスラスラ出てくるな」
「俺が考えたんじゃないよ」
1パイントのギネスは早くもあと一口でなくなりそうになっている。
「大昔に読んだ誰かのエッセイにそう書いてあったんだ」
誰が書いたものだったかは忘れてしまったけれど、それを読んだ時、あの Moanin' の印象的な出だしをそんな風に表現していたことに偉く感心したのだった。Helen Merrill が You'd be so nice to come home to と歌い出すところだって、Miles Davis が 'Round Midnight を吹き出すところだってなんだっていいとは思うのだけれど、でもやっぱり Moanin' が一番しっくりするような気がする。
「それも使っていいか?」
「ご自由に」
「って言うか、お前が考えたんじゃないんだから断る必要ないか」
「そうだな」
「それにしてもお前、やばいぞ。今の子に『ターンテーブル』なんてわかるわけないじゃないか」
こいつがその若い女の子にふられた時は何と言って慰めてやろう。Moanin' でトランペットを吹いていたリー・モーガンは俺達の年よりずっと若い33才で愛人に撃たれて死んだんだ。それに比べればいいじゃないか、とか?
「ところでお前、その Moanin' って CD 持ってないか?」
「持ってるよ」と言うかわりに僕はバーテンダーにギネスのお代りを注文した。飲み終わったらこう言ってやろう。
「お前、やばいぞ。音楽を聴こうと思ったら、今の子は CD じゃなくてまず YouTube で聴くんだよ」