私らしく生きるための、ちょうどいいわがまま宣言。
空気を読むことに長け、自分のことよりも他者の感情や言葉を尊重し、相手に合わせることを最優先…そんな生き方を長年してきた。
私なりの哲学で人生を送ってきたが、時折生きづらさもどこかで感じていた。
そんな生き方が染みついた私だったが、時間をかけて自分の声に耳を傾けられるようになってきた。
そして、その声を、自分の口から本当の「声」にできるようになってきた。
もっと、わがままになってもいいのかもしれない。
そう思えるようになってから、私は私の人生を主体的に生きられている気がする。
すぐ横にいるわがまま
夫はわがままである。
こちらのタイムスケジュールはお構いなしに、自分のしたいことを優先する。
この夫の生態が長年理解しがたかった。現在も完全に理解することはできず、時々小競り合いに発展する。
(夫の名誉のために補足するが、家事・育児スキルは結婚年数と比例して右肩上がりの、良き父でありパートナーである。感謝。)
夫は頻繁に私に問う。
「自分はどうしたい?」
冒頭に戻るが、長年「他人軸」で生きてきた私を、この問いは大いに混乱させた。
ただ、10年間も問われ続けると不思議なもので、気づけばじわりじわりと自分を主語にして話せるようになってきた。
「あなたの人生の主役はあなた」
他者にかけてきた言葉を今、私自身に浴びせている。
私、東京に行く
この夏、東京で開催されるイベントに当選した。
東京までは片道4時間。
子どもたちの習い事の予定も詰まった週末。
私はどうしたい?…もちろん、私は行きたい。
家族の後押しも得て、スーツケースを転がして新幹線に飛び乗り、十数年ぶりの、一泊ニ日の東京一人旅が始まった。
慣れない東京の交通網。少し不安。それなのに、冒険しているかのようにわくわくする自分も共存していて、なぜか心地よい。
向かう先は生き方や考え方に共感させられる、自立した素敵な女性のトークイベント。
不思議なことに、そこに集う人々にも似た空気が漂い、溢れるほどの前向きで清々しいパワーをもらって帰ることになった。
夕食は一人でふらりと入ったお店で。
昔は一人で外食なんて絶対にできなかった。
「一人ぼっちでかわいそうと思われているかも。」なんて思っていたから。
今はそんなこと、どうでもいいと思える。私は、私が食べたいものを食べる。
カウンターに案内され、店主がお通しとして出してくれた野菜たっぷりの塩麹スープ。
全身に染み渡る旨み。
気さくな店主が話しかけてくれたおかげで会話も弾み、ワインも進む。
隣の席のイタリア人の男女も声をかけてくれた。女性は日本在住のようで、日本語も堪能。
その女性は、揚げたての料理をすぐに口に入れて、
「熱っ!!でも、これがやめられないのよね〜。」
「美味しい〜!」
「これ、おかわり!まだあります?」
少女のように、出される料理の一つ一つに歓喜する彼女。
年齢は私の上なのか下なのかもわからないが、とにかく可愛いくて気持ちがいいと思える人だった。
熱々の揚げ物を、私にも一緒に食べようと勧めてくれた。
幸せそうに食べる彼女の隣にいるだけで、私の顔も綻んだ。
アサーティブに生きる
アサーションスキル。相手を不快にさせることなく、自分の気持ちを爽やかに伝えるスキル。
私は他者の気持ちに敏感で、共感力が高いほうだと思う。それは時に褒められもするが、時に自分を苦しめもする。
私に必要なのはアサーションスキル。だから、周りへの配慮も念頭に置くことを前提として、「私はちょうどいいわがままになる!」と心に決めた。拳を突き上げて、俺は海賊王になる、みたいに。
わがままに生きると思っておくくらいが、私にはちょうどいい気がする。
うん。しっくりくる。
わがままという単語にはネガティブな印象がある。ちょうどいいわがままに当てはまる日本語はないものか。
東京に行った。たかがそれだけのことかもしれない。
でも、それは確かに私が望み、私自身が選択したこと。
ちょっとだけ胸を張ってみる。