持論、食べ物の好き嫌いが多い人

食事は本能的なものであるが、人生のかなり初期で社会的に矯正されるものでもある。生き物としては足りる分だけ好きなものを食べれば生きていけるが、社会的には全部食べるのが正解になる。

なぜなら、大抵は誰かしらが用意してくれた(生産者も含めて)ものであり、残すことは失礼にあたるからだ。とりあえず日本では、どこの家庭でも、好き嫌いなく、全部食べることを是とするのではないか。

ただ根が本能である以上、出されたものと己の欲求がマッチしないことはある。なんで草食わねばならんのだとか、風味が苦手とか、酸っぱすぎて食えるかとか、そもそも量が多すぎるとか。全部食べることに対する何らかの「イヤ」が発生したとき、それを口に出せるかどうかって、結構性格が出るんじゃないだろうか。

何をすれば正解か(=完食)がはっきりしている場面で、自分の意思を通せるか?嫌なことを嫌と言えるかを試されていると思う。

だから私は、育ちを含めてすごくいい人なのに意外にも食べ物の好き嫌いがはっきりしているような相手に対して俄然興味を持ってしまう。「食事を残せる」というのは、「人の顔色をうかがうだけの人ではない」ことの一種の証拠のように受け取っている。

もちろん、食事に対する価値観も大きいと思うので一概には言えないが。

好き嫌いが多いというのは、ある種意思を表明できるポテンシャルのある人だと、私は思うのだ。


以下、自分語りなんだが

一人暮らしをするようになってマジで好きなもので食事デッキを組めるので、好き嫌いの感覚が鋭くなった。キャベツの千切りは細かくてつかみづらいので苦手だ。最近は好き嫌いだけでなく、食べたい適量もわかってきたように思う。会社の食堂でならお腹一杯を感じたときに残せるようになった。無論、残さない方がいいのは確かだが。意思表明のリハビリと思っている節があり。

空気を読むだけのいい子をやめたい。他人からの承認でしか生きていけなくなっちゃうからね。

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