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「なぜ日本の労働者の賃金だけが上がらないのか」その理由がわかった。

 

竹信三恵子著『賃金破壊 労働運動を「犯罪」にする国』

を読んで、日本の労働者の賃金だけが上がらないのか、その理由がよくわかった。日本の労働組合のほとんどは「企業別組合」だ。その企業に働く正社員労働者だけが構成員であり、非正規雇用の労働者は組合には加入できない。それに対し、「産業別組合」というのがある。その産業で働いている労働者なら正規・非正規雇用を問わず加入できる組合である。こちらの形態の組合の方が世界的には標準的なのだが、日本では圧倒的に少数派である。その少数派の組合で賃金上昇や労働条件の向上を勝ち取ってきた希有な組合が存在する。「関西地区生コン支部」(関生支部)である。本書からその実態と警察による弾圧、それに対して国を訴えた労働者たちの今、を伝えたい。結論から先に言うなら、闘う組合無くして賃上げも労働条件の向上(ブラック企業の撲滅もパワハラ・セクハラの撲滅もありえないということだ。だいたい政権が企業に「賃上げ」を要請するなどおかしいではないか。以下、本書から引用する。

 知人は、生コンクリートを建設現場に運ぶ運転手などを組織する「全日本建設運輸連帯労働組合」というものものしい名前の労働組合の役員を務めている。この長い名前の労組は、縮めて「全日建」(ぜんにっけん)と呼ばれることもあり、愛称夙に「連帯ユニオン」と呼ばれることもある。

 一方、私は新聞社の労働経済記者として男女の賃金差別、ワークライフバランスセ欠いた企業の労務管理、パートや派遣、非正規公務員などの非正規労働者に対する人権侵害、「労働」の外側の家事・育児労働を無視した労働政策、といった問題を手掛け、36年の記者生活の後、教員として大学に移っていた。

 このように、「女性の働きにくさ、生きづらさ」を袖に日本の労働問題と向き合ってきた私が、どちらかと言えば「男だらけ」のイメージの「連帯ユニオン」を知るようになったのは、2008年のリーマンショックの少し前だった。

 2004年、危険度が高いとして禁止されていた製造業での派遣労働が解禁され、多数の若者が派遣として工場で働き始めた。そこへ、世界的な経済変動となったりリーマンショツクが起きた。大量の派遣労働者が契約を打ち切られ、勤めていた会社の寮も追い出された。こうした働き手を支えるため、同年末、労組や反貧困団体のメンバーらによって東京・日比谷公園に「年越し派遣村」が開設された。「連帯ユニオン」は、それら製造業派遣の若者たちによる労組を立ち上げ、さらに、「若者ための労働NPO」を始めたいという大学生たちの相談にも乗っていた。労組を直接つくるのでなく、NPOというかたちで学生による学生たちの労働教育・労働相談を行って若者による労組の結成につなげる、という、これまた新しいタイプの労働運動だった。

 私はそれらの新組織のスタートについて、次々と記事を書いた。

 そのころは、この「連帯ユニオン」の活動をテーマにした土屋トカチ監督のドキュメンタリー映画、「フツーの仕事がしたい」も話題になっていた。映画は、過酷な長時間労働と低賃金に耐えかねて「連帯ユニオッ」に加入したセメント輸送の30代運転手、皆倉信和(かいくらのぶかず)と、運送会社や旧財閥系大手セメント会社との攻防をリアルに描き、二つの国際映画賞を受賞している。

 そんな「連帯ユニオン」のメンバーのうち、大阪、滋賀、京都、和歌山など近畿地区の生コン企業の運転平らか加入する「関西地区生コン支部」(関生〈カンナマ〉支部)という労組の組合員らが、2018年の夏以降、ストライキや団体交渉を理由に相次いで逮捕され、しかも、工場のベルトコンベアに乗せられたかのように粛々と、大量に、起訴され続けている、と知人は言うのだった。

エピローグ

「それって、日本の話なの?」

 関西生コン事件の取材は、そんな疑問から始まった。そしていま、「日本って、こんな国になっていたんだ」という思いの中で、私はいったん取材を終えようとしている。

 1945年の敗戦で、日本の憲法には労働基本権の保障が書き込まれた。働く人たちはこの労働基本権をもとに経営側と対等に交渉し、経営側昆雇用を守りつつ得た利益を社会に還元し、警察は市民を守り、検察は巨悪に立ち向かい、裁判は客観的な証拠と法にもとづいて公正に罪を裁く。さらに、遅れていると言われてきた男女平等についても、ようやく「女性活躍」が政策として掲げられるに至った。人々が「戦後日本」に抱く、このような漠然としたイメージを、関西生コン事件はみごとに覆した。

 取材で目にしたものは、待遇の改善を求めて労働基本権を行使した組合員たちに対する警察の大量逮捕、検察の大量起訴、これらに歯止めをほとんどかけない裁判所の姿たった。背景では、労働運勁を「暴力集団」の名の下に抑え込める枠組みづくりがいつのまにか進み、国会質問では労組に対する破防法の適用が求められた。言論の自由に貢献するはずのSNSの世界でヘイトグループなどによる反労組情報が席捲し、こうした集申象雨のような動きのなかで、労組を通じてようやく獲得した女性運転手たちの活躍の基盤だった「シングルマザーも経済的に自立できる労働条件」は、つぶされつつある。

 マスメディアの大半が沈黙してきたため、事件について知る人は少なかった。多少聞きかじっていた人たちのなかからも「東京ではありえない」「普通の労組ならそういう目には合わないから自分たちには関係ない」といった声を聞いた。

 だが、これは一部の地域の例外的な出来事なのか。このような事態が何の抵抗もなく容認されるなら、社会運動や労働運動を容易に封じられるシステムが定着してしまうのではないか。一連の光景は、「戦後民主主義」なるものの焼け跡のように見えた。

 そんな私の話に、知人が、ぽつりと言った。「一部の例外と本気で思つているわけではないでしょう。何もしない理由がほしいのでは」

 振り返ってみれば、私も同じだった。

 「これ以上面倒は増やしたくない」と思い、「自分か取材しなくてもいい理由」を懸命にさがそうとした。

 そんな「ヘタレ」が動く気になったのは、働き手が政策や企業に影響力を及ぼすための「装置」としての労組の衰弱が社会の持続可能性を失わせたことを、取材を通じて痛感してきたからだ。

 生計の道を企業に握られている働き千加声を上げるのは、本当に難しい。労組は、そんな働き手がまとまることで企業と対等に交渉する権利を法で保障された唯一の団体であり、NPOでそこは代替できない。その権利をフルに生かして経営と渡り合ってきた労組を好き勝手につぶしていいとなれば、社会の持続可能性は絶望的になる。

 その一例が、2000年から始まった介護保険制度だろう。この制度は発足時、「利用者の利便」という観点からはさまざまに論じられた。だが、介護労働者が経済的に自立できる制度かどうかについて担い手の側からの発付けほとんどなく、そこを素通りして制度は始まった。その後、生活がたてられずにやめていく担い手は相次いだ。業界は人手不足に悩み、いま、新型コロナの拡大下の介護崩壊が、私たちを襲っている。

 ちなみに、小島ブンゴード孝子らによると、デンマークでは、介護労働者は正規の安定雇用として制度設計されたため、産業構造の転換の中でケア産業の比重が高まるにつれ労組に加入する女性が増え、いまや労組加入者の51%が女性だ。その結果、介護労働者の声も政策に反映されやすい。

 2018年に成立した「働き方改革開運法」では、企業ごとの労使協定で過労死時間の認定基準すれすれの残業時開か容認されることが法律に書き込まれた。従来の青天井残業に歯止めがかかったという評価もあるが、これによって、会社の壁を越えた基本的な基準とされていた「週40時間、1日8時間労働」の規定が相対化され、会社別ルールの合法化につながっていく恐れも一部に指摘されている。「同一労働同一賃金」も、各企業の人事管理のおり方を優先し、転勤の有無などが考慮されることが法律に書き込まれた。企業の壁を越えて回し労働に同じ賃金を求められる仕組みとはならず、ここでも社会全体を貫く公正の原理から、会社の都合に合わせたルールヘという会社優位の方向性が見えてくる。

 いずれも、企業の壁を越えて社会横断型のルールをつくることで、どんな会社で働く働き手でも人間らしく生きていける権利を守るという労組本来の役割が衰退した結果だ。

 また、女性活躍政策では「男女平等意識土尚める啓発」や、よりよい仕事に就くための「スキルの向上」が推奨されている。それらが重要な政策であることは間違いない。だが、ここでも働くルールへの視点の欠落か影を落とす。意識改革やスキルの向上は、女性たちが働きに出ることには役に立つ。だが、そこに働き手のための規制がなければ、供給だけが増えて需要を上回り、むしろ値崩れ(賃下げ)の原因になる恐れさえある。つまり、それだけでは企業のための制度に終わってしまうことになる。

 たとえば、「働き方改革」で容認されたような、「月100時間未満」といった過労死すれすれの残業を認める仕組みを放置すれば、女性が「働くべきだ」と意識改革しても、長時間労働の壁にぶっかってしまう。資格をとっても、スキルをつけても、賃金差別が続く限りまともな評価を受けられない女性は多数生み出される。

 そんななかで、「私かだらしなかったから働き続けられなかった」「せっかくの資格を生かせなかった」と自分を責め、「頑張れなかった自分」に自信を失って苦しか女性たちに、私は取材を通じて嫌というほど出会ってきた。労組による働き手のための規制か弱いために、活躍政策がかえって抑圧的に働く一例だ。

 本書で紹介したように、関生支部の女性運転手たちは、「啓発」以前に働かざるを得ない状況に追い込まれ、大型免許をとっても労働単価の切り下げや就労口数減らしに遭って貧困化させられてきた。関生支部が人一倍ジェンダーに敏感な労組とは思えない。だが、どの会社の社員か、正規か非正規かを越えて労働条件を保障させるという大枠によって、彼女だらけ、業界全体を規制するルールを獲得し、初めてワーキンダプアから脱出できた。週休二日や定時で帰れる権利も、これらの交渉で獲得してきたものだった。

 「装置」が弱められた枠組みのなかでは、賃上げ圧力も容易に働かない。そもそも、賃金は労働者からの何らかの圧力がなければ上がらないものだという基本的事実さえ、この社会では忘れられつつある。首相が経済界に賃上げを依頼することの奇妙さがわからない人が結構いたのは、そんな懸念を裏書きする。こうしたなかで、日本の賃金は一九九七年以降下がり続け、1章で触れたように、先進国で唯一賃金が下がり続ける国になった。

 これについては、主要産業が衰退し、まともな賃金を払えない業界が増えていることを挙げ、産業構造の転換を解決策とする主張もある。私心この意見に賛成だ。だが同時に指摘したいのは、ここでも、働き手の声を反映させる「装置」なしでは企業利益が膨らむ構造転換が優先され、働き手に利益が還元される転換は難しいということだ。日本の介護保険が働き手の経済的自立を計算に入れず、むしろワーキンダプアを量産する結果に終わったのは、その好例だ。



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