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ハルノ宵子著『隆明だもの』を読む 1

ハルノ宵子著 『隆明だもの』を読んだ。「戦後最大の思想家」と言われた吉本隆明の等身大の姿が娘の手によって表現されていてとてもおもしろく読ませてもらった。わたしの興味惹かれた部分を紹介したい。

あの頃  P32~33

 村上さんが家に来ると、私は必ず「村上一郎文学者~!」と言って出迎えたりおそらく父が、「やっばり村上さんは文学者だな」と言うのを聞いていたからなのだろう。
 村上一郎をまったくご存知ないは代の方に説明するならは、戦時中海軍青年将校だったのに生き残ってしまった、ざっくり言えば”ウョク”の人だ.三島山紀人の割腹自決からほどなく、死に場所を求めていたかのように、自刃してしまった人である。
 村上さんは週に1度くらいは訪れ、世間話や事務的な話をしては帰って行った。お酒を飲んで乱れた記憶はない。あまり飲まなかったのか、酔っばらわないタチだったのかは分からないが、いつもクールでシブイ男だった.村上さんは漫画がムチャクチャうまかった。ノラクロや赤銅鈴之助をプロはだしの線で、 スラスラと黒板に描いたのが印象的だ。
 それも″サヨク”の代表、島成郎さんの家の黒板にだ。 いわゆる「ブント」のリーダー島さんも、あらゆる意味でイイ男だった.まずは色気があった。”エロい″と言ってもいい。
 精神科医に転身からも、「女性の患者はね、ますオレに惚れさせなきゃダメなんだよ」と言って、はばからない人だった。村上さんとは対照的で、めちゃくちゃ陽気な酒だった。酔うと豪快に「ワハハー」と笑った.島さんは、私が幼稚目の頃の″お嫁さんになりたい人No,1″だった,ちなみにNo,2は梶木剛さん)。今だって、あんなイイ男はいない―!と思っている。
 そんな島さんの家で、私と両親、島人妻、編集者11人、母の親友”あっこおばちゃん”、そして村上一郎さんとで撮った写真が残っている。バックは、村上さんのノラクロと赤胴鈴之助の黒板だ。ウヨクもサヨクも無い。皆最高の笑顔だった。
 村上さんが、将校時代の軍刀を持って米て見せてくれたこともある.竹で持ち上げ、「うわ~!重いんだね」などとはしゃいだ。後にその刃が、村上さんの命を奪うことになるとも知いずに。
 島尾敏雄・ミホ夫妻、奥野健男さんと娘の由利ちゃんと一緒の写真もある。どうも私がいじめるらしく(?)、山利ちゃんは、どの写真も半泣き顔だ。三浦つとむさんの大きな背中を″おすべり″にしたり、谷川雁さんを「ガーン」と呼んでいたり、多くの伝説の名編集者が出入りし、遊んでもらった。江藤淳さんが、生まれたばかりの妹の頭をなでながら、「いいなぁ~女の子…姉妹っていいなぁ…」と、子供のいない江藤さんは、うっとり
と言っていたのを覚えている。

お気持ち  p42~44

 ある年代以上の人は、カゼをひいた時お母さんに、りんごをすりおろしてガーゼで絞ちたジュースを飲ませてもらった経験があると思う。今のようにジューサーやミキサーが一般的でなかった時代だ。あの白い果肉が、なんでこんなにちょっぴりの茶色い液体になってしまうのか不思議に思った。でもその甘い茶色い液体の味は、カゼの時の特別感と共に、母親のいたわりの気持ちとして、記憶に刻まれている。
 そんな甘美な思い出も、私が小学校高学年の頃には母のぜんそくの悪化に伴い、父にバトンタッチされた。
 私や妹が熱を出すと、父はよく卵酒を作ってくれた。しかしそれはヘタクソな人が作ったかき玉汁のように、黄味と自身がガッチリと固く分離し、しかもアルコール分が飛んでおらず、未成年者を死に至らしめかねない、固ゆで卵入り熱爛だった。
 栄養を取らせようと、夜中にクリームシチューを作ってくれたこともある。インスタン卜のシチューの素が出回り始めた頃だ。父は濃厚な方が良かろうと、説明書の倍量の素を入れるので、塩辛いスライムのような物体が出来上がる。ひと日なめただけでこみ上げてくる。
 せっかくあの吉本さんが、心を込めて作ってくれたんだぞ― と憤るオジ様方も多いと思うが、もしも熱が8度5分あって寝つけない深夜0時に妻にこれを出されたら、「離婚」の2文字が頭をよぎると思うし、お気持ちをくんでチャレンジしたとしても、確実に吐くだろう。実際具合の悪い時にコレをやられ続けた母は、「人がどんな状態にあるのか、想像力というものがまったく欠如している。人の気持ちを慮ろうとしない、独りよがりで傲慢な人間だ」と、父の人間性にまで言及していた。
 一方の父は、私や妹が「ゴメン…今日はダメみたい」と、ひと口でやめようが、母に激しく拒絶されようが、強要することもなく、怒るでもしょげるでもなく淡々と片づけ、そしてその行為はまた繰り返された。
 父の生前には多くのいただき物をした。友人・知人・読者の方から。お菓子・名産・野菜・果物・お米・生鮮…晩年、父も母もほとんど食べられないし私も少食だ。また複数の方から同じ物をいただく時もある。とにかく仕分けする。友人に配るご近所に配る、日が暮れる。下処理をする冷蔵する冷凍する。箱をたたむゴミを出す、汗だくになる。人が食べる猫が食べる鳥が食べる、それでもダメにする。手を合わせて捨てる。老人の家にこんな大量に・・・人とかぶるとか想像しないのかな?と、不遜にも考えてしまう。
 ある日、一読者の方からお手紙をいただいた。 よくお米や家で採れた野菜や果物などを送ってくれただ。それは「自分は吉本さんの長年の読者で、毎年色々な物を送ってきた。でもお礼状の1枚もよこさない。もう吉本さんに送るのはやめて、どこかの施設にでも送ることにする」という内容だった。
 「うわぁ・・・」本当にゴメンナサイー!でも父は書けないし、私だってその時間が無かったんですよ~中し訳ありません― 今後はどうか施設にお送りください。その方が間違いなく有効です――という1枚のお返事のハガキすら書けないまま今に至る。きっとこの人の胸には、吉本家は人道にもとる礼儀知らずな家として刻まれたことだろう。
 人が誰かを想い差し出される行為は、無為であることに慣れ切っていた。見返り・・・少なくとも人は評価を期待するのだ。確かにピントはずれで独りよがりではあったが、父のお気持ちのために費やされた時間も労力も、差し出した時点で完結していた。父は天に還すようにその場で手離していたのだ。

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