寺地はるな 『水を縫う』を読む
とても「ステキ」な小説だった。内容に触れるとネタバレになるので控えます。
e-honから引用
「男なのに」刺繍が好きな弟の清澄(きよずみ)。「女なのに」かわいいものが苦手な姉の水青(みお)。「愛情豊かな母親」になれなかったさつ子。「まっとうな父親」になれなかった全(ぜん)と、その友人・黒田。「いいお嫁さん」になるよう育てられた祖母・文枝。普通の人なんていない。普通の家族なんてない。世の中の“普通”を踏み越えていく、6人の家族の物語。
おすすめコメント
【第9回河合隼雄物語賞受賞作品】松岡清澄、高校一年生。一歳の頃に父と母が離婚し、祖母と、市役所勤めの母と、結婚を控えた姉の水青との四人暮らし。学校で手芸好きをからかわれ、周囲から浮いている清澄は、かわいいものや華やかな場が苦手な姉のため、ウェディングドレスを手作りすると宣言するが――「みなも」いつまでも父親になれない夫と離婚し、必死に生きてきたけれど、息子の清澄は扱いづらくなるばかり。そんな時、母が教えてくれた、子育てに大切な「失敗する権利」とは――「愛の泉」ほか全六章。世の中の〈普通〉を踏み越えていく、清々しい家族小説。
読んで自分が一番気に入った箇所を引用する。(第5章 静かな湖畔の)ネタバレの可能性もあるので、それを避けたい人は無視してください。
自分に合った服は、着ている人間の背筋を仲ばす。服はただ身体を覆うための布ではない。世界と互角に立ち向かうための力だ。
清澄が頬を紅潮させて、駆け寄っていく。なにごとかを言ったようだったが、聞きとれなかった。全がこれまたなにごとかを言い返して、それから清澄の頭に触れた。髪をかき乱された清澄が、ふわりと表情をゆるませる。
声が出ない。唇が乾いて、口を開いたらばりばり裂けてしまいそうだ。ほんの数メートルの距離が果てしなく遠い。
徒競走で転んで、砂まみれの姿でこっちに手を振っていた清澄。その瞳は、まっすぐに全(ぜん)だけを捉えていた。中途半端に満たされていた父性のようなものはやっぱり「のようなもの」でしかなくて、彼らが笑いあう輪の中には、ぜったいに入ることができない。そう思い知らされる。
結婚するということ、親になるということ。「ピンとこない」という理由で、どちらも追求することなく今日までやってきたけれども。自分の現状に不満があるわけではないのだけれども。
応接室に引き返して、静かにドアを閉める。
涙が出てしまいそうな気がした。気がしただけだ。こんなことでいちいち泣くわけがない、子どもじゃあるまいし。けれどもけれども言っていたって、過去は変えられないんだから。
ドアが開いて、清澄が入ってくる。さっきまで頬を紅潮させていたのに、その表情は暗い。
「どうした」
「いや・・・結局、ドレス、自分の手でつくれんかったな、と思って」
隣に腰かけた清澄が、ふう、と息を吐いた。
「僕には、やっぱりまだ、はやかったんかな」
若者特有の感情の浮き沈みの激しさが鬱陶しくもあり、うらやましくもある。
棚から本を一冊抜き取って、清澄の膝に置いた。
「ホワイトワークつて知ってるか?」
ホワイトワークは簡単に言えば、白い布に白い糸で刺繍を施す技法だ。色を使わない素朴な装飾なら、水青(みお)の好みに合いそうな気がする。
「刺繍に関してなら、全よりお前のほうが上ちゃうか」
「・・・そう?」
清澄の煩が、ふたたび紅潮する。
「他の本も見ていい?」
「もちろん」
民族衣装のデザインや伝統の刺繍や織物についての本ははんぶん趣昧はんぶん仕事であつめていた。
日本の文様をあつめた図案集を、清澄は立つたまま熱心にめくっている。
「気に入ったんなら、持っていってもええから」
返事はなく、かわりに「ゴゴゴゴ」という音が響き渡った。腹か。今鳴ったのは、お前の腹か。
立ち上がって上着を羽織ると、清澄がふしぎそうな顔を上げる。
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