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今村翔吾 著『茜唄』を読む 2 『平家物語』の作者は平知盛であった。

 平知盛については、石母田正の『平家物語』(岩波新書 1957年刊)に詳しい。平家物語の研究書であり文芸書でもある本書は、とても有名なk「平家物語」解釈書である。今村翔吾氏がこの本に目を通しているのは明らかだが、『茜唄』に通じる部分を引用しておく。

一 運命について

 『平家物語』ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう。この物語を読んだ人は、運命、運、あるいは天運、宿運というような言葉がくりかえしでてくることに気がついたにちがいない。「高橋心は猛(たけ)く思へども、運や尽(つき)にけん、敵(かたき)はあまた有り、痛手は負(おひ)つ、そこにて遂に討たれけり」。武士の最期は普通このように語られる。どんなに「大力の剛のもの」でも、運命がつきれば死ぬほかはない。 一人の人間だけでなく、 一族・一門の興亡を支配しているのも運命であった。平氏が諸国の武士たちから見放され、没落してゆく有様は、「運命の末に成る事あらはなりしかば、年来恩顧の輩(ともがら)の外は、随(したがひ)附く者無りけり。東国には草も木も皆源氏にぞ靡(なび)きける」と語られるし(「州俣合戦」)、比叡山の大衆たちが源平のいずれにつくかについて評議したときには、「源氏は近年より以降、度々の軍に討勝て、運命開けんとす。何ぞ当山独宿運尽ぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや」というように語られている(「返牒」)。これは『平家物語』の作者の思想だけからきているのではない。人間の力のおよび得ないもの、予見しがたい力、歴史と人間を背後にあって動かしている漠然とした力を、この時代の人々は運命という言葉で表現したのである。したがって身分の高下は関係がなかった。安徳天皇が壇浦で入水したのも運命がつきたためであり、平氏一門の都落ちも運命に見放されたためであった。

 このように『平家物語』に運命という言葉や観念がくりかえしでてくるのは、当時の一般的な考え方を反映しているまでのことであって、この時代の文学とすればむしろ当然のことであったろう。そのこと自身はとりたてていうほどのことではないかもしれぬ。ただこの物語をよく注意して読むと、作者が自分の運命観をとくに語らせたり、あるいはその観念を体現させている幾人かの人物がでてくるのであって、そのような人物が物語の全体のなかで見のがすことのできない役割を果していることが知られる。 一人は清盛の嫡男である平重盛であり、 一人は重盛の弟新中納言知盛である。平氏の家人として有名な斎藤別当実盛もその一人にかぞえられよう。これらの人物を作者が物語のなかでどのような人間として創りあげたかということを知ることによって、『平家物語』の一つの側面をさぐりだすことができるとおもう。

 知盛は、物語のなかでは、 一方の大将ではあるが、めだたない存在である。清盛、重盛、宗盛、維盛等の平氏の主要な人物にくらべれば副次的な人物にすぎないし、教経や重衡等のはなばなしい活躍に眼をうばわれていると、 見うしなってしまいそうな人物である。作者の創造した多様な平氏の公達の群像のなかで、見えかくれする程度にあらわれてくる平凡な武将である。しかし『平家物語』を一読して、忘れがたい印象をのこす人物の一人は、この知盛であろう。 一谷(いちのたに)の合戦に敗れた知盛がその子知章と従者一人をつれて屋島に落ちのびようとしたときのことである。主従三人は、東国武士にかこまれ、知章が父の身代りとして討死するあいだに、知盛は沖の船にのがれる話がでてくる。そのとき彼は宗盛につぎのように語ったという。
   武蔵守に後れ候ぬ。監物太郎も討せ候ぬ。今は心細うこそ罷成て候へ。如何なる親なれば、子は有て親を扶けん、敵に組を見ながら、いかなる親なれば、子の討るゝを扶けずして、か様に逃れ参て候らん。人の上で候はば、いかばかり、もどかしう存候べきに、我身の上に成ぬれば、よう命は惜い者で候けりと、今こそ思知られて候へ。人々の思はれむ心の内どもこそ漸しう候へ(「知章最期」)。
 子が自分の見ているまえで、しかも身代りになって、むざむざ殺されるのを見過して逃げのびた知盛のこの言葉は、素直であるといってよい。このような場合、「他人のことならばどんなに非難めいたことをでもいいたく思うのに、自分のことになると、よくも命は惜しいものでありましたと、今こそ思い知らされました」という彼の一言葉には、自分にたいする武将らしい弁護は少しもまじっていない。生死の境に立てば子をさえ見殺しにする人間の生への執着と利己心のおそろしさを、そのままさらけだしているのである。『平家物語』は一貫して現世を厭わしいものとし、来世を賛美したが、同時にこの物語ほど人間の生への執念の強さを語った文学も少ないだろう。知盛はそれを素朴な言葉で語ることのできる人物であった。彼を浜から沖まで運んでくれた馬を、船に乗せようがなくて陸に追いかえしたとき、家来はどうせ敵のものになるのだから射殺そうと言ったが、知盛は「何の物に成ばなれ、我命を助けたらん者を。有べうもなし」と、それを一言のもとに制止したという。知盛は大体このような人間としてあらわれてくる。彼が平氏の運命についてもっともよく洞察していた人物の一人として描かれているのは、かならずしも不思議ではない。都落ちにさいして、平氏は京都に抑留していた東国の武士たちを斬ろうとした話が『平家物語』にみえる。頼朝の挙兵の直前に大番役のために上洛してきた畠山・小山田・宇都官等の東国で知られた名門の武士たちである。そのとき知盛はつぎのような言葉でそれを制止した。
御運だに尽させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所従等如何に歎き悲み候らん。若し不思議に運命開けて、又都へ立帰らせ給はん時は、有難き御情でこそはんずれ。只理を柾げて、本国へ返し遣さるべうや候らむ(「聖主臨幸」)。

 知盛は重盛のように平氏が滅亡すべき運命にあると予言しているのではない。平家にとって運命が開けることもあり得るともいっている。彼はただ自分の一族が滅びるにしても、興るにしても、人間の力の及ばない運命に支配されていることを確信しているだけである。だからここで百人・千人の東国武士の頸を切っても、平氏の運命が尽きているならば、なんの意味があろうかといっているのである。命をたすけられたことに感銘したこれらの東国武士たちは知盛に臣従して、ともに都落ちすることをねがったが、それにたいして彼は「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召具すべき様なし。急ぎ下れ」といって、それを問題にもしなかった。知盛の運命にたいする確信は、 このように「魂」とその「ぬけがら」とを区別するだけの人間への洞察とむすびついていたことは、われわれの興味をひく点である。彼は重盛のように運命について哲学的な言葉をつらねることはしなかった。歴史と経験が彼に教えた人間にたいする洞察を通して運命というものをとらえていたように描かれている。

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