すべては自然現象

池田清彦氏の説はなかなかおもしろい。私たち日本列島に住む連中は、何が起きても「すべては自然現象」と思って、やり過ごすらしい。以下、引用する。

 日本には自分たちの力での政治を動かしたり、何かを勝ち取った経験がまったくない。民主主義だってアメリカに戦争で負けたことでもたらされたものだからね。アメリカに占領されていなかったら中国のような国になっていたかもしれない。
 昨年亡くなった文芸評論家の加藤典洋が『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(幻戯書房)という面白い本を3年前に出したんだけれど、そこにはこういうことが書かれている。
 江戸時代から明治時代へと向かおうとする幕末、当時の人たちは尊皇攘夷を掲げていたんだけど、大政奉還で江戸幕府が倒されると、尊皇開国に集団転向してしまう。攘夷というのは外敵を撃ち払って日本国内に入れさせないことだから、開国してしまうと攘夷ではなくなるんだよ。尊皇攘夷と言っていた多くの政府要人はなんの反省もなく開国派に転向し、外交用のサロンとなる鹿鳴館を建立して近代化へと突き進んでいった。
 ところが、1930年ごろに世界恐慌が起こって日本が食えなくなると、今度はまた尊皇攘夷に変わる。しかし、この尊皇攘夷は政治体制をひっくり返そうという、革命思想としての明治維新の尊皇攘夷ではなく、国家権力が国民を煽動する装置としての”疑似革命思想”であった、というのが加藤典洋の見立てである。
 そして、1931年の満州事変、1939年のノモンハン事件あたりから軍国主義が台頭し、石油などの資源を確保するために外国を侵略、満州国をつくったりして日本の領土を広げていくんだけれど、そうやって突っ走った末にアメリカに負けて、また開国するわけだ。

 加藤典洋も私もすごく不思議に思っているのは、そのときの日本人の感性なんだ。日本はアメリカに原爆を落とされ、300機あまりのB29による大空襲で東京が焼け野原にされ、40万人以上の非戦闘員が殺されたわけだから、普通なら国民感情として反米思想が燃え上がるはずなんだけれど、日本人はなぜか反米にならなかった。
 広島の平和記念公園に設置されている原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書いてあるんだけれど、原爆は日本の過ちではない。当時の戦況を考えるとアメリカは原爆を落とす必要なんかなく、言ってみれば新型爆弾の実験台にされたようなものだった。当時の日本政府も広島原爆の4日後に「国際法および人道の根本原則」を無視したものだと声明を出している。ところが、敗戦後は原爆について何も言わなくなり、反米感情も高まらなかったんだね。
 アメリカだって驚いたと思うよ。とくに連合国軍総司令官のマッカー・サーは、日本人が反米ゲリラを組織したりしてすごく抵抗することもあると考えていた。だからこそ、マッカーサーは天皇の戦争責任追及を主張するイギリスやオーストラリアなどを抑え込み、日本国憲法をつくって天皇を象徴ということにしたわけだ。
 マッカーサーは日本の占領統治を成功させてアメリカ本国に凱旋し、軍を退役して大統領選挙に出馬することを考えていたんだ。結果的には予備選挙に負けて共和党候補にもなれなかったんだけれど、天皇を戦犯にしたら面倒くさいことになると思ったんだろうね。
 そうやって日本国憲法だけが残った。けれども、天皇を戦犯にしようがしまいが、憲法を変えようが変えまいが、結局のところ日本は反米にはならなかったと思う。なぜかというと、多くの日本人にとって戦争に負けたのは自然現象にすぎないからだ。
 自分たちの力で世の中を変えたという成功体験がないので、あまりにひどい出来事が起こると日本人は「自然現象だから仕方がない」とあきらめてしまう。鬼畜米英と叫んでいたけれど、この攘夷は民衆の心に深く根ざしたものではなかった。敗戦は地震や台風と同じ自然現象にすぎないわけだ。
 原発事故が起きても自然現象、消費税率が10%に引き上げられても自然現象。誰だって増税は嫌だから、増税を主張する政党と減税を主張する政党があれば普通は前者には投票しないんだけれど、増税を主張する政党が衆議院で3分の2の議席をもっていたりすると、あまりにも相手が巨大なのであきらめてしまうんだよね。だから、日本ではよほどのことがない限り政権交代なんて起きない。そういう頭の構造になってしまっている。
 自分たちが仕組みを変えることで生活をよりよくしていくというパトスがないから、システムが一度決まると、そのなかでどう立ち回るのが得かということにしか頭が働かない。日本人に権力に管理されたがる人が多いのは、おそらくそういう理由だろうと思う。

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