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心の貧しい者は幸いか

一般にはマタイの「心の貧しい者」よりも、ルカの「貧しい者」の方がイエス元来の言葉に近いと言われる。
また、「心の貧しい者」というのは、「心において貧しい者」つまり謙虚な者という解釈もある。
ただ、日本語では「心の貧しい」と言う言葉はあまり良い意味では受け取りにくい。
「貧困なる精神」という本があるが、心が貧しいというのは、想像力や共感力に乏しいように、日本語では感じられてしまう。
しかし、例えばイエスは「貧しい」というネガティブなマイナスの状況を敢えて「幸いなり」と言ったのであれば、「心の貧しい」というマイナスの状況を「幸いなり」と受け止めることも可能になるという発想はおかしいだろうか?
「貧しい者、幸い」というのは、いかにもイエスらしいが故に、今やわかりやすい。彼は貧しい者と共に生き、貧しい者が互いに支え合い、助け合って立ち上がる、当時としては斬新なワーカーズ・コープなりユニオンのような概念を抱いていたのかもしれない。そして、来るべき神の国では貧しい者と富める者の地位が逆転すると説いた。
では、「心の貧しい者」は?
「心の貧しい者」、例えば、人の心がわからない者、人間理解が浅い者、共感力が乏しい者は幸いにならなくても良いのか。
それが何らかの心の病、精神病であった場合は? その人が暴力やネグレクトといった虐待を受け続ける生育歴の結果、なぜ人を殺してはいけないかもわからない人間になっている場合は?
「生活は貧しいけれども、心は豊か」という幻想に満ちたステレオタイプを説く人がいる。貧困家庭の人は心が綺麗だ。貧困国の子どもたちの目は輝いているとか。そういうこともあるだろうが、そうでないこともあるだろう。逆に「衣食足りて礼節を知る」という言葉もある。豊かな生活が豊かな精神を育む場合もある。
「貧しい者は幸い」であるべきだということはわかるが、では「心の貧しい者」は幸いになる権利も可能性も無いのだろうか? 貧困なる精神を抱く者は、その貧困が豊かな精神によって満たされることが必要なのではないのか。
つまりそれは、ありきたりな言葉で言えば、愛されることによって、その貧しい心が育て直されなくてはならないのではないか。
それは誰がどのようにすれば良いのだろう。たとえば15年かかってそんな貧困な精神に育ってしまった人の育ち直しには、やはり15年かかるのだろうか。それとも、リカバリーに15年かかって、育ち直しに更に15年かかるのだろうか。
あるいはもう生きている限り癒されることのない人もいるだろう。それでも、その人は見捨てられるべきなのだろうか。その人は、破壊された心を受け止められて、せめて生きている間、丁重に扱われる権利があるのではないか。
いずれにしろ、人が愛されてその貧しくなってしまった心を克服するには、途方もない年月がかかる。だからこそ、子ども時代から人は愛されなければならない。もし人が変わる希望があるとすれば、それは子ども時代により大きいと言える。
「心の貧しい者」こそ幸いにならねばならない。その人自身が幸いになり、その人がまた別の「心の貧しい」子どもを大切にすることが、社会を幸いにすることに繋がってゆく。
そう一筋縄では行かないし、時間も手間もかかることではある。一人の人でできることでもない。だから、共同で協働しなくてはいけない。けれども、それは本当に大切な働きなのだ。
大切な働きだからこそ、本来はそのような働きをする、例えば福祉にあたるエッセンシャル・ワーカーの人びとを支え、豊かで余裕のある働きをしてもらうために、潤沢な予算が組まれなくてはならない。そういうエッセンシャル・ワークは資本主義的には大きな利潤を産む産業ではない。だから政治家たちはそのような分野には予算を配分しない。だから世の中は更に荒廃してゆく。私たち自らが価値観を変えなくては、誰もが「幸い」にはなれないだろう。
繰り返すが、「心の貧しい者こそ幸い」であるべきである。「貧しい者」も「心の貧しい者」も共に幸いになることが、この世を救済するのではないのか。

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