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わたしをセンセと呼ばないで

2024年2日4日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
マタイによる福音書23章1−12節(新約聖書・新共同訳 p.45、聖書協会共同訳 p.44)
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▼マタイによる福音書23章1-12節

 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
 そのすることは、すべて人に見せるためのものである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。
 だが、あなたがたが「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
 また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

▼先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

 今日の説き明かしには、「私をセンセと呼ばないで」というタイトルをつけました。文字通り、「私を先生と呼ばないでください」、「富田先生ではなく、富田さんでいいんですよ」というお話なんですね。それが結論です。
 その結論に至るまでに、いろいろとお話をしようと思います。
 私、学校の教師をしておりますので、普段から「先生、先生」と呼ばれております。生徒も「先生」と言うし、保護者の皆さんも「先生」と言うし、先生どうしでも「先生」と呼び合います。もちろん私も、他人を呼ぶ時には「先生?」と声をかけます。
 おかげで、最近はたとえば友達や知り合いと話していても、つい「先生」と呼びそうになってしまったりしますし、昨日健作さんと食事をしていた時も、つい目の前の健作さんを「先生」と呼びそうになってしまったりしていたんですね。「先生、ちょっと飲みすぎじゃないですか?」みたいな感じですね。
 世の中には「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」ということわざもあるようですね。「先生、先生」と呼ばれているうちに、自分が偉い人間になったような勘違いをする人を、からかったような言葉ですね。
 教師という職業を悪く言いたい人は、こういう「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」とうことを言う人もいないではないようです。「教師なんか学校で子どもに偉そうにしているだけだから、世間知らずだろう」というんでしょうね。
 まあでも世間に、本当に世間知らずでない人というのは少ないとは思うんですね。みんな自分の仕事に関連する業界とか、自分の興味や関心のある社会現象や社会問題については詳しいんでしょうけど、それ以外の広い範囲のことは知らない人が多いですよね、もちろん私自身も含めて。
 ただ、普段から「先生、先生」と呼ばれるのは、教師とか政治家だったりしますけれども、その先生たちが、「先生」と呼ばれるに相応しいほど世間が広いかというと、必ずしもそうではないというのは、確かに当たっています。
 特に「先生」と呼ばれて、深々と頭を下げてもらえる政治家の先生の方々には、広く世間の人がどうやって日々の生活をやりくりしているか、もっと大いに世間を知ってもらいたいものだなと思っておりますが、いかがでしょうか。

▼真面目な人たち

 さて、今日の聖書の箇所では、イエスがファリサイ派と呼ばれる人たちや、律法学者と呼ばれる人たちに対して、批判的なことを言っています。
 このファリサイ派とか律法学者という人たちは、よく福音書では悪者扱いされていますけれども、別に悪事を働く人々というわけではないんですね。
 この人たちは、旧約聖書に書かれた613個と言われる「律法」と呼ばれる掟と、その聖書の律法に基づいてさらにたくさん作られた細かい律法ができていった、それをまとめた本(ミシュナーとかタルムードと呼ばれたりする本)についてよく研究していて、そういう生活や社会の決まりごとに通じていて、文字の読めない人も多い一般庶民に、生活のあれこれを指導する「ラビ」つまり「先生」と呼ばれている人たちだったんですね。
 ファリサイ派の「ファリサイ」というのは、「分離した者」という意味です。律法を守れない人々と自分たちは違う、ということで切り離す、分離するんですね。そうやって、律法を守ることの大切さを人々に教えてゆく「教師」です。ですから、この人たちは実際知識も豊富だし、尊敬もされていたし、何より、真面目です。
 そして、紀元70年にローマ帝国がエルサレムを陥落させてユダヤ人国家をつぶしたときに、エルサレムの神殿という自分たちの精神的な中心を失ってしまったユダヤ人に、新しいユダヤ教のあり方を唱えて、新しい精神的な支えを提供していったのは、このファリサイ派を含めた律法学者たちなんですね。
 この人たちが進めていたユダヤ教のあり方を、「ラビ的ユダヤ教」と言います。つまり、「先生的ユダヤ教」「先生たちのユダヤ教」ですね。この「ラビ的ユダヤ教」が、神殿がつぶされて、エルサレムから追い出されて、散りぢりになってしまったあとのユダヤ人の生活を導いていきます。
 そういうわけで、イエス様の生きている時には、まだかろうじて神殿はありましたけれども、そのあとすぐ神殿を失ってしまったユダヤ人の新しい指導者に、すぐなってゆけるだけの力を持っていたわけで、この律法学者たち、その中でもファリサイ派は支持も集めていたし、真剣だし、決して悪い人たちというわけではないんですね。

▼真面目人の弱さ

 で、その真面目な人たちと思われているグループに、この聖書の箇所は喧嘩を売っているように見えます。
 今日の聖書の箇所では、イエスはファリサイ派や律法学者の「言うこと」は実行し、守りなさいと言っています。このファリサイ派や律法学者たちが教えているのは、ユダヤ人だったらちゃんと守るべきものとされて決まっている戒律ですから、それはちゃんと守りなさいよと言っているんですね。彼らの言っていることは、先祖代々のしきたりだから、それは普通に守るのがユダヤ人というものですよ、という常識的な教えなんですね。
 ただし、彼らの「やること」は真似をしないようにと。なぜなら、奴らは実行が伴っていない。だから、そういうところは真似をするのはやめておきなさい、というわけです。
 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23.4)。
 彼らは「律法を守れ」と言って人を指導する。けれども、律法が守り切れない人のことは「ファリサイ」という言葉どおり切り離す。
 律法を守り切れない人というのは、例えば、安息日の律法だったりすると、羊飼いのような仕事、あるいは羊飼いでなくても、生き物の世話をする仕事の人は、「金曜日の日没から土曜日の日没まで絶対に仕事をしてはならない」という安息日の規定を守れません。
 クリスマスの物語で必ず出てくる羊飼い、またイエスのたとえ話の中にも出てくる羊飼いですが、この人たちは律法を守らない汚れた人々と言って、ファリサイ派からは切り離されるべき人間とされていたんですね。汚れているから切り離されているということは、神に救われない、神に見放されていると見なされているということです。
 そういうことをファリサイ派、律法学者は言って回る。
 清い人、真面目な人はそういうことをする。
 真面目さ、正しさというのは、それ自体悪いことではないのですけれど、枠から外れた人、世間から指をさされがちな人、よごれた生き方から、目を背けてしまいそうになる弱さがあるのではないかと思います。
 真面目な人の困った所は、標準から外れる人、ほめられるような行いができない人を裁いてしまうというところにあるのではないでしょうか。

▼残念な先生

 考えてみれば、イエス自身が枠にはまらない人です。
 そもそも、父親がはっきりしない子どもとして、故郷のナザレの村では後ろ指をさされたり、大人になってからも会堂での礼拝で話をすると反感を買ってたたき出されたりしている人です。
 そして、公の活動を始めてからは、生臭いにおいをプンプン漂わせて差別されている階級だった漁師を弟子にしてみたり、姦淫の現場で捕まって「こういう人間は死刑にしなければならない」と言われている女性を助けて、律法学者みたいに人から「先生、先生」と言われている人たちよりも、路上に立って体を売っている女の人の方が先に天国に行くんだと言い切ったりする。
 とにかくイエスは、枠から外れた人たち、律法なんか守って生きられない人に寄り添う。
 そういうイエスのような人間から見ると、「先生、先生」と呼ばれている人たちは、世の中から認められるような生き方ができるだけ恵まれた人で、人間の本当のつらさなんかわかっていない。人間の醜さ、悪さ、病、どうしようもない失望や絶望などを到底理解できないんだよと、言われてしまっているのかもしれません。
 そういう人間たちのやることは、全部見せかけのものだ、とイエスは鋭く言い放ちます。
 「そのすることは、すべて人に見せるためのものである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(マタイ23.5)。
 これはユダヤ人の民族衣装の中でも、正装にあたるもので、おでこと左腕に、旧約聖書の4か所の言葉がヘブライ語で書かれた羊皮紙を入れた小さな箱を結び付けるんですね。その小箱をできるだけ大きくするというのは、自分がいかに信仰深いか、神に認められているかを誇張しようとしているんでしょう。
 自分が「先生らしい先生」でありたい。人から尊敬されるような先生でありたい。「先生」と呼ばれる職業の人に、絶対にそういう誘惑がないかというと、そうではないと思います。私自身、「富田先生はいい先生ですね」と言われると、有頂天になってしまいます。白状してしまうと、そんな残念な面もあるのですね。
 「宴会では上座に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」(マタイ23.6-7)。その通りです。
 まさに、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」。人が本心でどう思っているかということに目を向けることなく、自分が「先生」と形の上で敬われることに満足しがちな自分に、この聖書の箇所はハッと気づかせてくれます。

▼新島「さん」

 実は、同志社という学校の創設者である、新島襄という明治時代の教育者は、学生たちに「私を『先生』と呼んでくれるな」と言っていたそうです。やはり今日の聖書の箇所に、イエスが「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(マタイ23.8)と書いてあるから、それを文字通り実行しようとしたわけですね。
 そのことを言うと、私は前任の聖書の先生(もうだいぶ前に亡くなられた方ですけれども)に、「馬鹿者!」と叱責されたことがあります。「新島先生は謙遜な方であられるから、そう言ったのであって、それを真に受ける馬鹿がいるか! 新島『先生』と呼べ!」と言われました。
 それ以来、私は学校では「新島襄先生」と呼ぶ習慣が身に付きましたが、本心では「そういうのが権威主義というもので、新島襄自身は、あまりそういうのは望んでおられなかったのではないかな」と思ったりします。今は学校では、礼拝やお祈りの中では「新島先生」と呼んだり、でも授業では1人の歴史的人物として「新島」と呼ぶことが多いです。歴史上の人物に「先生」や「さん」をつけるのは不自然ですよね。
 ちなみに、新島襄は学生のことを、必ず「さん」づけで呼んだそうです。決して苗字だけで呼び捨てにはしないんですね。自分が学生のことを「さん」づけで呼ぶ。そして学生にも自分のことを「新島さん」づけで呼んでもらう。そうやって教師と学生が対等な人間であるということを伝えようとしていたんですね。
 それに倣って、私も生徒のことを必ず「さん」づけで呼ぶようにしています。女子も男子も同じ「〇〇さん」です。最初はちょっと他の人と違ったことをするので、ちょっとだけ勇気がいりましたが、今は自分でも慣れてしまいました。生徒さんの中にも、真似をして、クラスメートのことを誰でも「〇〇さん」と呼ぶ人もいます。
 ただ、生徒に「富田さん」と呼ばせるところまでは行っていません。そこまで行くと、他の教員と足並みが合わなさすぎる気がするので、そこまではやってはいません。

▼私をセンセと呼ばないで

 かつて徳島北教会では、笠置牧師は「先生」とは教会の人に呼ばせなかったそうですね。聞くところによれば、やっぱり聖書に「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(マタイ23.8)と書いてあるから、「先生と呼んでくれるな」ということであったということですね。
 それで、この教会でも今、私のことを「富田さん」と呼んでくれる人がいます。
 私はそれがありがたいと思っています。
 最近は私のことを「先生」と呼ぶ人が多くなってきました。不思議なことに、私はSNSでも「富田先生」と呼ばれることが多いんですね。どうも、「先生風」を吹かせているのでしょうか。どうも居心地が悪い気がします。
 私は学校の教師のかたわら、こうしてこの教会の牧師もしています。牧師としての私は「先生風」を吹かせていないでしょうか。権威主義的に振る舞ってはいないでしょうか。そういうことのないように、できるだけフラットな人間関係であるために、「先生」と呼ばずに「富田さん」と呼んでいただけるとありがたいです。
 ただ、「『先生』と呼ぶな」と命令するのもおかしな話です。この前、四宮守人さんと飲んで話したときも、そんな話が飛び出して、「『先生』と呼ぶのは権威主義になるから、『先生』と呼ぶのはやめなさい」というのを強制するのも、一種の権威主義ですよね、という話になりました。
 ですから、これはお願いであり、お勧めです。強制ではありませんが、私を「先生」と呼ばないでいてくれたら有難いです。
 祈りましょう。

▼祈り

 愛する神さま。
 私たちひとりひとりに命を与えてくださり、またその命を今日も生きることができますことを感謝致します。
 あなたは私たちをお互いの助け手としてお造りくださいました。そのあなたのご意志に私たちはお応えできているでしょうか。
 イエス様は私たちに、互いに愛し、仕え合うことをお教えになりました。
 どうか私たちが、互いに愛し、仕え合う関係を保ちながら、誰が偉いとか、誰が劣っているとか言うことのないように。
 また、どんなにこの世の基準に合わない人間であったとしても、あなたがありのままに愛してくださることを信じて、強く生きることができるように、あなたの愛を知らしめてください。
 そして私たちが、人間としてあなたの前に公平であることを思い起こしつつ、ある者が富をむさぼり、ある者が寒さと貧しさの中に捨て置かれるということを許さない私たちであらせてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。


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